前回、十三妹が安公子の舅母(安公子の母である安太太の兄弟の妻)に養子になりたいと言ったところまで見ました。舅母はもちろん、十三妹の願いを聞き入れ、二人は一緒に暮らし始めます。その後、十三妹は恐らく実の母親から得られなかったものを、この舅母から取り返すかのように甘えます。そして、舅母もそれに応えるように十三妹に接します。その甘えぶりはまさに、女強盗をやっていた時、十三妹は相当精神的苦しんでいたことの表れなのでしょう。先ずは、その甘えぶりを見てください。
夜になれば、(舅母は十三妹に)昔話や古人の伝記を話して眠りにつかせ、寝付けないと、しばらく姑娘(注:十三妹)軽くさすったり、ポンポンと優しく叩いたり、もう大の大人なのに、時には十三妹を抱いて寝かしつけてやりさえしても、舅太太(注;舅母)は少しも労を惜しまぬのでございました。(第二十四回[1])
そして、実の親子のような、この二人の関係は十三妹が安公子の嫁いでからも続き、十三妹も実の母親のように、舅母を頼りにしていたようです。
(舅太太は)姑娘(注:十三妹)について墓処までゆき両親を埋葬しました。その間、姑娘の着るもの食べるものを世話し、履物・化粧品をととのえ、姑娘の暇な時には笑話や昔話をしてやるなど、ずっと面倒をみて、はては姑娘が赤ちゃんを抱くようになると、おばあちゃんをつとめるなど、非常に睦ましく過ごしましたことは後の話となります。(第二十三回)
このように、十三妹は北京についてからは、安家の人びとと暮らしていました。しかし、その当の十三妹が知らない間、もっと言えば安公子さえ知らないうちに、二人の婚姻を回りの人びとが望むようになりました。次から十三妹の婚姻について見てみましょう。
三、十三妹の婚姻に向けて
拙稿の第一回目で書きましたが、安公子は結局、張金鳳と十三妹こと何玉鳳と結婚し、更には妾として長姐児という女性を迎えます。ハーレムエンド?とも言えるのでしょうか。もっとも、これは現在の日本の一般的な見方をすると、非道徳的なことでしょう。しかし、舞台は清代の中国、奥さんやお妾さんを複数迎えることは、社会的にも、道徳的にも問題はありません。実際、十三妹自身も張金鳳と安公子を結婚させようとした際、次のように言っています。
お宅(注:安家)ほどのお家柄だもの、妻の三人、妾の四人はあたりまえ、(第九回)
妻の三人、妾の四人と言った具体的な数字はともかく、十三妹自身も安家のような家柄ならば、複数の妻と妾がいるのは当然と考えているのは確かでしょう。また、清代の読者も同じように考えたことでしょう。
1.安公子と三人の女性
その三人の女性について見てみましょう。といっても、拙稿は主に十三妹について書いてきましたので、ここでは、その他の二人、張金鳳と長姐児について見てみましょう。
張金鳳については、拙稿でも何度か取り上げています通り、十三妹によって安公子の一番目の妻となった女性です。彼女は物語の初登場時で、18歳、家はあまり裕福ではないようですが、食べていくことはできる家庭でした。しかし、十三妹と出会ったときは、住んでいた河南で日照りが続き、別の土地にいる親戚を頼って旅をしているときでした。彼女の叔父が県学[2]の学生であったので、彼女はその叔父から読み書きを教わり、どんな本も読め、どんな字も書けます。そしてソロバンとお針仕事もできます(第七回)。そして、前回でも述べましたが、十三妹と瓜二つの美人です。違いがあるとしたら、安公子によると、
こちら(張金鳳)はおだやかでしとやか、あちら(十三妹)には英雄の気概があります。(十三回)
と描写されています。張金鳳は十三妹の恩に報いたいと常に考えている誠実な女性です。
もう一人、妾となる長姐児ですが、彼女は元々、安家にいた使用人です。役に立つ使用人とされています(第三十三回)。十三妹と張金鳳から「長姐姐(長姉さん)」と呼ばれています。初登場は第二十八回で、そこでは彼女は
ほっそしりした。背がすらっと高く、色の黒い丸顔、二重瞼の可愛い娘。(第二十八回)
と描写されています。十三妹や張金鳳とは違ったタイプの女性と言えるでしょう。彼女の両親は貴州[3]の苗族[4]で、反乱に加わったところ、捕まり罪人とされ、功臣に与えられる奴隷とされました。その両親が安公子の曽祖父に与えられ、長姐児は彼女の両親が安家に来てから生まれた子でした。彼女は幼い時から安公子と一緒に遊び、12歳になってからは安太太に仕え(第二十九回)、安老爺のお世話もしていました(第四十回)。安公子より2歳年上です(第三十五回)。彼女は安家の人びとのために、安家の屋敷内を駆け回ります。
安公子が遠地に赴任することになったのですが、十三妹と張金鳳は二人とも、同時に妊娠し、二人とも安公子について行くことができません。そこで、十三妹と張金鳳の二人は長姐児を安公子に妾として迎えさせ、安公子の赴任地に同行させることを安太太に提案します。安太太と安老爺がそれを認め、安公子は長姐児を妾として迎え入れます。
話は少しそれますが、この『児女英雄伝』という小説は、白話小説の代表作の一つとも言える『紅楼夢』[5]を強く意識して書かれています。実際、『児女英雄伝』本文中、講談師の口を借り、次のように言っています。
例えば、この『児女英雄伝』中の安龍媒(注:安公子)でございます。これをあの『紅楼夢』の賈宝玉に比べてみますと、………また、安家の長姐児と、賈邸のあの花襲人とを比べますと、これもまた同じく幼い頃から公子に仕え、同じく公子より二つ年上でございますが、長姐児が「襲いてこれを取る」花襲人のように、安龍媒と男女の交わりを始めて試みる、ということは聞いたことがございません。(第三十四回)
『紅楼夢』の主人公・賈宝玉とその使用人・花襲人ペアと、『児女英雄伝』の安公子と長姐児ペアを対比しています。花襲人は賈宝玉の初体験の相手(『紅楼夢』第六回)で、賈宝玉とはお互いを深く理解する間柄です。この二人と対比していることから、『児女英雄伝』における安公子と長姐児の間にも精神的に深い結びつきがあると考えられるでしょう。それは、講談師(つまりは作者・文康)は言っているように、男女の関係ではなかったとしてもです。安公子と長姐児の深い結びつきについては、おそらくは、十三妹と張金鳳の二人も認めていると思います。二人が長姐児を推す理由として、次のように述べています。
人にとって一番得難いのはお互いの気質を理解し合うということです。あの人(長姐児)は幼い時から玉郎(注:安公子。妻の夫に対する呼称)と一緒で、一緒に成長した。(第四十回)
十三妹と張金鳳の二人より、長姐児の方が安公子を理解しているのかもしれません。拙稿の第一回で見ましたが、安公子は知らない女性を見ると顔が赤くなるほど、女性が苦手でした。だとしたら、幼馴染の長姐児は安公子が安心できる唯一の女性だったかもしれません。三人の女性についてまとめますと、
英雄のような気概を有し、武術に秀でた命の恩人十三妹
優しく、穏やかで、針仕事が得意な張金鳳
お互いを理解し合う、幼馴染のお姉さん長姐児
この三人の女性全てを安公子が娶るというハーレムエンド?に向かって物語は動き出します。次からは二番目の妻、十三妹の結婚について見てみましょう。ついでながら言えば、安公子は三人の女性の愛を獲得するための努力は一切しておりません。全て周りが決めたことです。
2、それぞれの思惑
それでは、安公子と十三妹の周りの思惑を見てみることにしましょう。そもそも、父の仇が既に処罰されたことを知り、今度は両親の後を追うと大騒ぎする十三妹を説き伏せて、安老爺たちは十三妹を連れて、北京に帰ることになるのですが、その前に十三妹は安老爺に三つのことをお願いします。
一、旅路につきましてからは、私は母の霊を守るだけで、お宅の女の方以外、他の方にはお目にかかりません。 二、都につきましてから、死者を葬って安んじますに、ほんの四五畝(注:一畝=6.144a=100㎡)ほどの土地をもとめて、早めに両親を合葬すれば結構なものでございます。伯父様には、決して無駄づかいなさいませんよう。 三、父母の墓所の近くに小さなお廟をお探しくださいませ、ほんの座る余地があればいいのでございます。私は、髪をおろして出家するわけでも、身を捨てて仏道に帰依するわけででもございませんが、ただ、一生父母の霊魂を守り続け、お墓を庵として身を終えたいと存じます。(第十九回)
安老爺は三つの願いすべて聞き入れます。一つ目の約束のお蔭、安公子は旅行中、十三妹と接触することはありませんでした。二つ目の約束は安老爺のことを思ってのものです。しかし、三つ目の約束については、安老爺としては、十三妹が尼僧のような生活をして一生を過ごすことを望んではいませんでした。しかし、十三妹が上の三つの願いごとを言った時、それに対して安老爺が何らかの否定的なことを言った場合、面倒な性格をしている十三妹のこと、何か面倒なことを起こす恐れがあります。それで、安老爺は十三妹の願いを聞き入れたのでした。しかし、十三妹を何処かに嫁がせ、当時の一般的な女性の普通の生活をして欲しいというのが安老爺の願いでありました(二十三回)。
それでいながら、安老爺は、息子の安公子と十三妹との結婚については、当初反対でした。それは、安老爺は十三妹が息子である安公子の命を救ってくれたこと、そして、十三妹が安老爺の亡くなった親友の娘であり、恩師の孫娘あること、これらから、何とか、十三妹への恩を返し、恩師と親友の思いに報いるために、十三妹を説得し、自殺を思い止まらせ、北京に連れて来たのです。安老爺は十三妹を北京に連れ帰り、彼女が両親を葬るのを手伝い、その内、いい相手を見つけてあげるつもりでした。あくまでも、安老爺は十三妹と彼女の父、祖父のために行動したかったのでしょう(第二十三回)。ですので、最初、十三妹の師匠にあたる鄧九公とその娘である褚大娘子から十三妹を安公子と結婚させたいという提案があった際には、それでは息子安公子のために、十三妹を北京に連れ帰ったことになるので、その提案には反対しました。
では、安老爺は何故、考えを変え、二人の結婚を望むようになったのか、それについては、下回書交代。
参考文献
『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻1960年 『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻 訳 奥野信太郎、常石茂、村松暎1961年
《儿女英雄传》一、二 文康 中州古籍出版社2010年
《红楼梦》曹雪芹 高鹗 人民日报出版社 2007年
『科挙―中国の試験地獄』宮崎市定 中公新書1963年
[1] 今回も訳は『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻1960年 『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻 訳 奥野信太郎、常石茂、村松暎1961年 平凡社を使用し、一部表記と訳を変えています。
[2] 科挙を受けるために当時の国立学校に入らければならないが、その代表的なものが中央にあった太学と地方にあった府学、州学、県学である(『科挙』p19)。
[3] 中国の南方にある省で、四川省、湖南省、広西チワン族自治区、雲南省に囲まれた省です。
[4] 少数民族の一つです。
[5] 作者は曹雪芹、高鶚。主人公の賈宝玉と賈家に住む女性たちとの様々な交流が描かれ、中国では『源氏物語』を紹介するとき、日本の『紅楼夢』と言った表現をとることがあります。
石井宏明(いしい・ひろあき)
[出身]1969年 千葉県生まれ
[学歴]中華人民共和国 北京師範大学歴史系(現:歴史学院)博士生畢業
[学位]歴史学博士(北京師範大学)
[現職]東海大学/東洋大学 非常勤講師
[専攻]中国語学(教育法・文法) 中国史
[主要著書・論文]『東周王朝研究』(中国語)(中央民族出版社・北京、1999年) 『中国語基本文法と会話』(駿河台出版社、2012年) 「昔話を使った発話練習」(『東海大学外国語教育センター所報』第32輯、2012年) 「「ねじれ」から見た離合詞」(『研究会報告第34号 国際連語論学会 連語論研究<Ⅱ>』2013年)