楽しく学ぶ倫理学 第17回 自然の中にある人間田上孝一

環境中心主義の位置

前回予告したように、今回は環境倫理学の話から始めたい。

環境倫理学の中心的意図は、世界の中での人間の位置の相対化にある。これは実は、環境倫理学がその名に反して、環境という語の常識的意味を否定することに立脚しているということだ。「環境」という日本語を見ても、そこに何か深い含意があるとは思われないだろう。英語ではenvironmentで、何かを取り巻いていることを意味する。そしてドイツ語ではUmweltであり、まさにum周りの、Welt世界なのである。つまり環境とは人間の周りの世界であり、人間を取り巻いているものである。逆に言えば、人間とは環境によって取り巻かれているものであり、環境の中心にあるものである。お分かりだろうか。実に環境という言葉そのものが、人間中心主義的な世界観を表明しているのである。環境倫理学はまさに、こうした人間中心主義的な環境観を打破しようとする知的営為である。人間は環境の中心ではない、あくまでその一部に過ぎないというのが、環境倫理学の前提である。

この点は、環境倫理学の古典の一つになっている、アルド・レオポルドの「土地論理」(ランド・エシックス)に明確である。

レオポルドによれば、これまで人間は自分を世界の中心で支配者と見なしていたが、これからの倫理においては、人間は環境世界の平の構成員の一人としてみなければならないという。環境はこれまで人間にとっての有用性でのみ評価されてきたが、環境には人間の評価に左右されない、独立した価値がある。それどころか、むしろ人間のほうが環境を基準に評価されるべきである。

環境を字義通りに中心存在である人間の周りの世界と見ることを辞めることによって、人間は環境の一部に埋め込まれた存在に格下げされる。これまでは人間にとって有用かどうかで判断されていた環境の要素は、むしろ環境という全体にとってどれだけ重要かという観点から再評価されることになる。人間にとっては無価値なものでも、環境維持のために必須であれば、それは重要な要素とされるべきだ。例えば美しくも美味でもなく、薬効成分もない草花は人間にとっては無価値な雑草扱いされるが、その群生がその地域の土壌保全に役立つ場合は、重要な存在価値があるのである。

このような環境中心主義的観点からレオポルドは、環境にとって有益であるかどうかで、価値一般を定義しようとする。いうなれば、倫理学それ自体を人間中心主義的なものから環境中心主義的なものへと変革しようというのである。

同じようにアルネ・ネスによって始められた思想運動であるディープ・エコロジーもまた、環境それ自体が人間から独立した価値があると主張する。つまり自然には内在的な価値があるのである。ここからディープ・エコロジーでは、人間が自然に介在することそれ自体を批判するのである。つまり、文明のあり方ではなく、文明それ自体を否定する。

しかしこれは、原理的に不可能なことである。というのは、人間が自然に介入するのは、現代文明に特有なことではなく、人間の基本的な存在条件だからである。

この点を明確にしたのが、マルクスの労働過程論である。マルクスは労働を人間の本質的活動とした上で、労働を人間と自然との物質代謝を制御する過程だとした。これはどういうことかというと、先ず自然世界全体が大きな物質の循環過程にあると捉える。絶えず循環する物質気過程それ自体は人間が止めたり、完全に制御することはできない。人間はこの大自然の過程の中にあって、自らに必要な物質を取り入れ、不要な物質を排出する。これは生理的身体が絶えず行なっていることだが、このような新陳代謝に相当する過程を、人間が自然に対して行なっているのが労働だとする。人間は物質循環の摂理に従いながら、自然に働きかけて必要なものを取得し、不要なものを排出する。新陳代謝で取り入られ排出されるのが物質であり、新陳代謝する身体が物質的存在であるように、労働する人間も働きかけられる自然も共に物質的存在である。ここに神の摂理のような超自然的原理は存在しない。

こうした労働は、常に自然の加工である。自然を加工するということは、自然が文字通りあるがままであることを許さないことである。人間は進化の途上で現れてきた当初から道具を用い、火をおこす。つまり自然を加工する。自然への介入は文明特有ではなく、人間存在の基本的なあり方なのである。自然に内在的価値を認めず、これを道具視することは、人間存在の基本条件なのである。

ここから、人類の生存そのものを否定するのでなければ、自然に内在的価値を認めて、自然への人為的介入を原則的に拒否する、強い意味での環境中心主義は取れなくなる。確かに、人類の存続そのものが悪だという反人間主義や厭世主義は、古来から様々に主張されてきた。現代でも反出生主義(アンチ・ナタリズム)という、洗練された論理で人類が絶滅すべきことを説く思潮もある。実際アルネ・ネスに強い影響を与えた思想家も、厭世的な色彩が濃かったとされる。この意味では環境中心主義の帰結が、人間がいないことが環境にとって最善だとする、いわゆる「人間嫌い」の倫理になるというのは頷ける。しかし、人類の大多数が生殖を望むというのは所与の価値観であり、近い将来にこれが変更されて、人口の多数が自らの種の絶滅を望むということは考えられない。そこまで行かなくても、人間嫌い的論理が内在している土地論理やディープ・エコロジーが主張するような、極端に少ない人口を理想とする未来は、実現可能性が希薄であるし、生存し生殖もしたい多くの人々の自由を奪う強制が必須でもある。そして何よりも実現可能で実行可能でもあるという、倫理規範の前提条件を満たしていない。

このことから、環境中心主義というのが自然そのものの内在的価値を主張し、人類のいない地球を理想とするような強い主張である限りは、これを支持することはできない。しかし環境中心主義というのが、世界における人間の特権的地位を否定し、人間を環境の一部であり環境に埋め込まれた存在として捉える見方を意味するのならば、環境中心主義的であることは倫理学の必須条件になる。この意味での環境中心主義は、むしろ環境主義といったほうがいいように思う。

このように、人間存在そのものを否定する環境中心主義は受け入れることはできないが、世界における人間の特権性を否定するという意味での環境主義は、現代において具体的な倫理規範を考える際の、前提的な視座となる。

意味付与する存在としての人間

人間存在それ自身を否定する環境中心主義は受け入れられないが、環境に埋め込まれた存在として人間を捉える環境主義は前提的な思考になるといったが、これはまた、自然そのものには内在的価値を認めず、人間による自然加工を受け入れる立場とつながる。自然は人間が好き勝手に扱っていいものではないが、人間とは無関係にそれ自体として価値を持つものではない。自然の価値は人間に評価されるからこそ価値がある。これはつまり、価値それ自体が人間によって評価される限りで価値を持つからだと、私には思われるからである。

私がこう思うのは、私が採用している環境論の前提的理論枠組みである労働過程論が、唯物論による理論だからである。

労働過程論では、労働する人間も人間が労働を通して働きかける自然も、共に物質的な存在だと見なされる。西洋の伝統的な思考のように、精神的な存在である人間が、物質的な自然世界に働きかけるという構図はとらない。人間も外的自然も同じ物質的自然であり、人間という自然と環境という自然との相互作用関係である。このため、現在の人間が高い価値を認めるものでも、物である限りでは物質であり、それ自体は原子の集合体に過ぎず、その点から見ると無価値な物体に過ぎない。ところが実際にはそれ自体で価値のある多くのものがあるというのが常識である。例えば金は貴金属の代表であり、それ自体で価値があるように思われる。その価値は人間がどう思おうとも関係がなく、人間から独立した客観的なもののように思われる。ダイヤモンドも然りである。しかし一説によると、地球の地下深くには大量のダイヤモンドがあるといわれる。また宇宙にはダイヤモンドの塊のような惑星があるのだという。いずれにせよ我々にはアクセスすることはできないが、仮にダイヤモンドが道端に転がっているようなものだったらどうだろうか。幾ら美しいからといって、今のような高い価値があるだろうか。

金にしても、確かに美しくいつまでも錆びて朽ちることがない。それ自体で価値があるように思われる。しかし金の総量はごく僅かである。既に採掘され、これから採掘可能な分を含めても、30万トンに満たないとされる。金の比重を考えれば、これがいかに少ないかが分かるだろう。つまり貴金属とはまた、希金属でもある。少ないからこそ価値がある。しかしこれはまさに、その価値がそれを使う人間によって決められるということにならないだろうか。価値が客観的なものなら、希少性で大きく左右されるというのはおかしいだろう。欲しい者が多いのに量が少ないから高価になる。まさに人間の都合によって価値が定められているのである。

こうした価値の属人性は金の価格のような経済的価値に典型的だが、実は価値一般が基本的には経済的価値と同じ性質を持っているのではないかということである。勿論価値の中には経済的価値と明らかに異なるものがある。数ある価値の中でも最上のものだとされているのは愛情だと思うが、愛を価格化するのは冒涜だというのが一般的意見だろう。確かに愛には値段がつかないし、無理やり値段をつけて売買するのは人間性を損なうという常識が、望ましい倫理規範でもあろう。しかし愛は果たして人間から独立して、それ自体としてあるものだろうか。もしあるとしたらそれは、物理的な性質を持った物体なのだろうか。

それは考え難いだろう。もしそのような、人間から独立した客体として愛があるとすれば、そのような愛は非物質的なものだろう。まさにプラトンはそのような愛のイデアを想定したのだった。しかし我々が採用する立場は、プラトンのような観念論ではなく、唯物論である。唯物論においては、人間から独立して存在するものは物質的な存在だと考える。非物質的な客体は、人間から独立しているのではなくて、人間によって客体化されたのであり、人間と相関的にしか存立しえないのである。つまり愛の本質とは、人間がそれを愛だと見なすことである。愛はその言葉によって人間が意味するところのものである。つまり愛が愛であるゆえんは、人間がそれを愛として、愛という言葉で説明されるような意味内容を持つものとしたことである。

愛が人間を代表する価値であり、愛の本質は愛という言葉で指示される意味内容であるとするならば、価値一般が同様だと考えるのは自然だろう。つまり価値とは、人間がそれを価値あるものだとすることそのものであり、評価された対象である。そして評価とは対象を価値あるものと意味づけることである。つまり価値とは人間が対象に与える意味のことである。従って価値の本質は主観的なものであり、人間世界の内部にのみ存在するものである。

このため、人間がいない世界は、それ自体としては無価値である。無価値というのは悪いということではなく、そもそも価値というもの自体が存在しないということである。また無価値であるということは、存在そのものがないということでもない。人間がいてもいなくても世界は存在するが、そこに善悪も美醜もない。善悪や美醜はあくまで人間がそう見なすものに過ぎない。価値はどこまでも人間的な基準であり、人間が評価する限りでのものに過ぎない。

このことはまた、環境中心主義という考えが、本当には成り立たないということも意味する。つまり環境それ自体は価値の源泉にはならないのである。唯物論的に考えれば、価値は人間から独立して環境世界に内在しているものではない。環境中心主義とは環境が中心だと人間が考えることで、真正には環境中心主義ではない。環境に価値が内在すると考えることは、本当は人間がそう見なすことに過ぎない。もしそうではなくて、人間と独立して価値それ自体が存在していると考えることは、愛のようなものが人間とかかわりなくそれ自体で存在すると考えることで、観念論的な見方である。

勿論観念論的な見方を採用するのは自由であり、唯物論が間違っている可能性もある。唯物論と観念論のどちらが正しいかどうかは、誰もが納得できる正解がある問いではない。それは神が存在するかどうかと同質の問いである。神が存在するという前提で万物を首尾よく説明することもできる。しかし私は、今のところ神の存在を確証できる個人的確信を得てはいない。同じように、この世界に物理的実在ではないがしかし客観的に実在する非物質的実体の存在を確証できないでいる。そのため、今のところは観念論よりも唯物論を前提したほうがいいだろうということで、唯物論の立場を選択しているということである。従って読者は、あくまで唯物論は私の選択する前提的立場であるというだけに過ぎず、唯物論以外はあり得ないと強弁したいのではないと理解されたい。当然観念論的立場を選択することもできるので、その場合は、価値は意識から独立した客観的実在だと無理なく説明することができよう。ただし今度はそれがどのような実在なのか、物理的ではないが物理的存在のように実在するものとは何なのかを説明する必要があろう。それは私には納得できない説明になるということである。

 

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)