楽しく学ぶ倫理学 第18回 権利的存在としての人間田上孝一

擬制としての価値

 前回述べたように、価値が対象それ自体に内在するものではなく、人間が対象に与える意味だとすると、価値あるものは人間にとって専ら有用なもの、もっと端的には人間にとって有利なもののみとなるはずである。人間にとって不利となるようなものは、反価値して退けられると考えるのが自然だろう。

確かに殆どの物事がこの通り処理されているように思われる。実際伝統的な環境観はまさに環境を人間にとって有用であるかどうかで判断し、人間に有益な富をもたらす源泉として利用してきたのである。これは実は、大抵の物事は専ら手段的に有用という道具的価値しかないと、人間が考えていることの現れである。

例えばこの原稿はパソコンで書いているが、パソコンの価値というのはこうしてワープロ機能が使えたり、インターネットその他のことができるところにある。もしこれらのことができなければ、パソコンはただの箱であり、無用の長物である。つまりパソコンの価値とは専ら道具的価値なのである。

仮にあるものが道具的価値ではなく、他の何にも役に立たないがそれ自体で価値がある、つまり内在的価値があるとすると、それが何の役に立たなくても、それ自体で尊ばれるものということになる。例えばもしパソコンに内在的価値があるとすれば、仮にそのパソコンに何の機能がなくとも、筐体を眺めるだけで十分その役割を全うできるということになる。そういうパソコンは実在しない(もっともインテリアとして飾る用の張りぼてパソコンは存在する)が、内在的価値がこういうものならば、芸術作品には内在的価値がありそうである。

ところがこれも本当にはそうではない可能性がある。絵はただ見られるだけのものだが、名画は見る人に喜びを与える。ということは、絵は鑑賞のために存在しているのであって、人間が鑑賞するための手段であることが、その本義ということになる。また絵画作品には決して一義的な価値ではないが、投資対象としての価値もある。実際バブル経済華やかりし頃には、日本人投資家が印象派の絵画を法外な値段で買い取り、世界中の美術愛好家の顰蹙を買ったこともあった。今でも名画の一般的評価と、オークションでの落札額や掛けられる保険料は正比例する。モナリザやフェルメールの作品に最も高い値が付くのは、周知の通りである。

こうなると、芸術作品も果たしてその価値は専ら内在的なものなのかという疑問が拭えない。しかしこんなことを言えば、どんなものでも道具的価値しかないのではないかという反論が起きよう。ところがそうではない。実は人間は、人間にとって最も重要な存在を、専ら内在的価値を有するもの、若しくはその道具的価値は非本質的で二義的なもの、その内在的価値こそが本質的で一義的だと見なしているのだ。言うまでもなくそれは人間自身である。

どうして人間は自らの本質を内在的価値ある存在であることに帰すのか。それは人間を道具と見なすことがどういうことなのかということを考えれば分かる。仮に道具的価値しかない人間がいたとしたら、それはどういう存在なのだろうか。自分自身には何の価値もなく、自分以外の者のためにのみ存在する人間である。いうまでもなく、それは奴隷である。奴隷の存在理由は、主人のための道具となって生きることにある。つまり奴隷とは生きた道具である。ということは、人間の本質を道具的価値とすることは、人間を奴隷とすることなのである。

だから我々は、人間の本質は内在的価値だと考えるのである。それは我々が近代の基本的価値観を、絶対に正しいものとして確信しているからである。つまり、人間は奴隷的な隷属状態にあってはならないし、そのような境遇に人間を追い込んでは絶対にいけないということである。このことは、他ならぬ日本国憲法に力強く記されている。そして憲法に基づく民法でも、奴隷制の絶対的禁止の原則は貫いている。民法で契約は相互の申し出の一致で成立することになっているが、奴隷契約は強制なく結ばれ当事者が同意していても、公序良俗違反で無効である。奴隷制は、表面的には合法に見えるが、実質的に債務奴隷になっているような隠れ蓑を含めて、どんな形であっても許さないのが、日本の法律である。つまり日本の法律は、奴隷制社会の否定の上に築かれた近代資本主義社会の基本理念である、人間の根源的平等を体現しているのである。

私自身は資本主義という経済システムは絶対的ではなく、人類の持続可能性を前提するならば、より合理的なシステムに取った変ったほうがいいと考える者であるが、資本主義が生み出した奴隷制の絶対的拒否という理念それ自身は、どんな社会になっても守られるべき普遍的価値だと考える。普遍的価値といっても、人間に関りないという意味で客観的に実在するものではなく、あくまで人間が作り出した意味内容であり、いわば擬制なのだが、人間の絶対的平等を守るためには、人間自身に内在的価値があるという信念は、広く人間社会に定着すべきだと考えている。

 

権利の必要

人間に内在的価値があるということからは、どのような理論的帰結が生じるのか。これは弱い意味と強い意味とで違いが生じるだろう。弱い意味で人間に内在的意味を認めることは、常識的な感覚で、人間性を損なうことは許されないことである。まさに人間を奴隷にするということは、現代の我々の常識からは許されない。奴隷には内在的価値が認められないからである。このような弱い意味で人間に内在的価値を認めることは、内在的価値というものの理論的射程を突き詰めることなく、常識的な意味で人間を大事にすることであり、これはどのような倫理的立場であっても共有されている前提といえよう。

だから功利主義にも当然、共用されている。どのような功利主義的提言にあっても、誰かを奴隷にしてもよいという内容は許されない。奴隷労働によって全体の幸福が向上するというような功利計算は、功利主義は認めない。しかし功利主義は、常識的な弱い意味では人間に内在的価値を認めるだろうが、より踏み込んだ強い意味では、これを認めない。強い意味で内在的価値を認めるということは、原則的に人間を手段視することそれ自体を禁じるためである。

勿論どんな理論でも、人間を手段視することをいついかなる場合でも認めないというのは、馬鹿げている。それではその主要な目的が顧客の満足にあるような、サービス労働は存立し得ない。人間を目的として扱えといったカントにしても、あくまで最終的にはという留保を付けて、専ら手段としてのみ扱うことを批判したのである。

しかし功利主義ではカントのように、人格を目的として扱うということは、規範の主要内容には含まれない。目指されるのは個々の人格の尊重ではなくて、あくまで全体の幸福である。全体の幸福のためには、個々の人格の手段視は少しも悪くはないのである。それどころか、少数の人格を尊重することによって多数が避けられるはずの損害をこうむるとすれば、そのような人格の尊重は悪である。乗客全てが乗ることができない救命ボートがあり、乗れる者を選別する必要がある時に、切り捨ててよい人格などないという立場に固執している内に船が沈没し、救えるはずの命を失わせてしまったとしたら、そのような人格の尊重は功利主義的には愚かな悪行である。功利主義においては人間の内在的価値は絶対的ではなく、相対的なものである。内在的価値の意味を強く取るならば、功利主義は人間に内在的価値を認めない立場だとも言える。

しかしこのような功利主義が何故奴隷制を認めないのか。まさにその理論内在的な理由は希薄なようにも見える。確かに古典的な功利主義の大家は勿論、功利主義を支持する現代の倫理学者の誰も、奴隷制を許容することはない。しかし奴隷制の絶対的拒否を功利主義的に導き出すことは本当に可能なのだろうか。もし少数の奴隷労働によって多数が益を受けるとしたらどうだろうか。功利計算は、奴隷の存在を正当化できないのだろうか。確かに暴力と強制によって奴隷にさせられる場合は功利計算以前の問題かもしれないが、自発的に全体の幸福のために奴隷的に奉仕する人がいたらどうするのだろうか。そのような場合は、功利主義では正当化されるようにも思われる。

だが、我々は日本国憲法の奴隷制の扱いが至当だと考える。奴隷契約は相互が同意して、暴力や強制がなく結ばれても無効にしなければならないと確信しているのである。このような考えは、奴隷的隷属は結果的効用に関係なく無条件的に間違っている見方とつながろう。つまり、人間が奴隷になることは、人間にとって失ってはならないかけがえのないものが奪われることであり、人間の尊厳が毀損されると見るわけだ。そのようなかけがえのない、人間の尊厳の基盤であるようなもの、そのようなものを我々は通常「人権」だと考えている。ということは、人間を奴隷にすることは、その結果として何らかの益があるとしても、人権に反するものとして結果以前に初めから禁じられなければいけないということである。

ということは、人間に内在的価値があるということは、功利主義のような弱い立場で留まることはできずに、人間に人権という固有の権利までも認める強い立場が要請されているように思われる。あるいは、たとえ功利主義に立つにせよ、功利原則を徹底して、例外なく帰結主義を貫くというのは、拙い方向だと言えるかもしれない。功利主義の枠内であっても、何らかの形で人権を絶対視する局面が必要な場合を認めるということである。このような功利主義が可能かどうかは、取りあえずここでの問題ではない。ここで問題なのは、人間に内在的価値を認めるのならば、人間がそれ自体で価値があることの根拠として、人権を想定しなければならないということである。

人権とは人間の権利である。ということはつまり、人間は本質的に内在的価値を持つ存在であるということは、人間は権利的存在であるということである。そしてこの場合の権利は、何か他のための役立つような手段ではなく、それ自身が目的的なものである。人間は自由である権利を持つが、自由は何か他のもののためにあるのではなく、それ自体が最終目的である。人間は平等であり、差別をされない権利を持つが、平等であることは何かに手段のためにそうなのではなくて、それ自体としてそうなのだ。平等であることそれ自体が目的であり、それ以上に何かに遡れるものではないのである。このような目的自体である権利が基本的人権として、人間の諸権利の中核を成すように思われる。

このように人間とは本質的に権利的存在である。権利があることが人間の尊厳の源泉であり、権利を奪われることは人間から人間らしさを奪うことであり、許されることではない。つまり人間には権利が必要なのである。

 

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)