ロックと悪魔 第12回 プロテスタント文学の悪魔2黒木朋興

 今回は、ホフマンの長編小説『悪魔の霊酒』を詳しくみてみたい。

 この小説においても、登場するのは霊的な存在であるサタン=堕天使ではなく肉体を持った人間である。それと同時に、物語の冒頭からサタンの存在が前面に押し出されていることを指摘しておきたい。主人公の修道士メダルドゥスの手記という体裁を取るこの小説は、父親についての回想から始まる。以下の引用をみてもらう。

父の話になるが、あるときサタンにそそのかされて呪わしい悪業へと誘惑され、死にあたいする大罪を犯してしまったということだ。それが後になって神の恩寵の光に浴することとなり、罪を償うために遠き寒冷の地プロイセンの聖地リンデに向かって巡礼の旅に出ることになったのであった。

ゲーテのメフィストフェレスと違ってこの小説において悪魔が現実世界に姿を現すことはない。専らサタンは霊界から物質界に影響を及ぼし人間の生の営みを破綻させようとしているのである。

 舞台はカトリックの修道会だが、教会を舞台に創作ができるということ自体カトリック圏ではあり得ないし、既に見たようにサタンを表舞台に上げるこの設定はプロテスタントの特徴だと言えよう。主人公の修道士メダルドゥスは、父や祖先が犯した罪のせいでサタンの導くがままに数奇な運命に翻弄され自らも犯罪を犯すが、贖罪の苦行を我が身に課すことによって赦しを請い、最終的には救われるという物語である。以下、簡単にあらすじを紹介したい。

 聖地リンデの地に辿り着いた主人公の父親は、かつて犯した罪を償うために行った激しい修行のせいで既に衰弱しており、主人公が生まれるのとほぼ同時に亡くなってしまう。母親はとある巡礼老人の

いまはまだ父御の罪が、ご子息のなかで煮えたぎり煮えくりかえっている。それでも、ご子息はいずれ信仰を護る闘いへと飛び立っていかれるでしょう。ご子息はぜひ聖職者の道にお就けなさるがいい!

という言葉に従い、息子に修道士の道を歩ませることにする。やがて主人公はカプチン会修道院の門を叩き、修道士メダルドゥスとなる。主人公はすぐに頭角を現し、修道院が保存する聖遺物を管理するという大任を拝するようになる。その仕事の引き継ぎに際し前任者の修道士キュリルスから修道院が所有する数々の聖遺物の中に悪魔が聖アントニウスを誘惑するために用いた「悪魔の霊液(エリクシル)(die Elixiere des Teufels)」があると告げられる。なお、この悪魔とはドイツ語の「der Teufel」のことであり、サタンではなく英語のデーモン(demon)に相当する言葉であることを言い添えておく。

 修道院でレトリックの才能を開花させたメダルドゥスは、見事な雄弁術で説教を行うことで教会に集まる信徒を熱狂させ、近隣の人々の間で評判となる。信徒たちの喝采に得意になるメダルドゥスに対して修道院長レオナルドゥス師は戒めの言葉を投げかけるが、慢心するメダルドゥスは聞く耳を持たない。そして、こともあろうに例の悪魔の霊酒を口にしてしまうのである。

 ある日のこと、メダルドゥスが告解席に座っていると、背の高い美しい女性が現れ好きになってはいけない相手に恋をしてしまった、と告白を始める。実は、その相手とは他ならぬメダルドゥスのことであった。そしてこの告白を耳にした彼の方でも、この女性に心を奪われてしまう。メダルドゥスは彼女に会うために修道院からの脱走を考えるまで思いつめるが、折しも修道院長レオナルドゥス師にローマに修道院の代表として赴くように命じられる。

 こうして修道会の外の世界に出たメダルドゥスは山中を歩くうち、崖の端で軍服姿の若者が微睡んでいる様を目にして注意喚起のために声をかける。ところが、事もあろうにその若者は崖の上から転落してしまう。この時メダルドゥスは彼を殺してしまったと驚愕するのだが、実は一命を取り留めており、この後この若者はメダルドゥスに影の如く付きまとい、二人して数奇な運命を辿ることになる。実は、この男、ヴィクトリーン伯爵といって、メダルドゥスの異母兄弟にあたり、なんとメダルドゥスと瓜二つなのだ。

 その後立ち寄ったフォン・F男爵邸においてメダルドゥスは件の女性と再会する。男爵の娘であるアウレーリエこそがその人だったのである。メダルドゥスは彼女に接近を試みる。ところが、彼女の兄のヘルモーゲンはメダルドゥスに対して警戒心をむき出しにし、恋路の障壁となる。ある晩、意を決したメダルドゥスがアウレーリエの部屋に忍び込もうとしたところ、ヘルモーゲンが飛びかかってくる。もみ合ううちに、メダルドゥスは持っていたナイフで相手を突いてしまう。そこにてっきり転落死をしたと思っていたヴィクトリーン伯爵が現れ、屋敷は大騒ぎになるが、メダルドゥスはその混乱に乗じて逃げ出すことに成功する。

 その後、メダルドゥスは、ヴィクトリーン伯爵に影のように付きまとわれつつ旅を続け、やがてアレクサンダー・フォンW侯爵の領地に辿り着く。メダルドゥスは名前と身分を偽り、その宮廷に客人として迎え入れられることとなる。ところが平穏な日々も束の間、やはり侯爵領を訪れたアウレーリエにヘルモーゲン殺しの犯人として告発され、牢獄に繋がれてしまう。厳しい取り調べを受け殺人犯として処刑されようかというその時に、ヴィクトリーンが殺人犯の修道士メダルドゥスとして捕まり罪を自供したことから釈放され、アレクサンダー・フォンW侯爵の仲立ちでアウレーリエと和解し、更に彼女と婚約をする。ところがまさに結婚の儀式を執り行なおうとしたその時、馬車で刑場に連行されていく修道士姿のヴィクトリーンに遭遇すると途端に取り乱し、こともあろうにアウレーリエに向かってナイフの刃をかざしてしまう。

 錯乱状態のまま逃げ出したメダルドゥスはやがてローマにあるカプチン会の修道院に辿り着き、そこでイタリアの修道院長にそれまでの行いを告白した後、命じられるがままに贖罪の行を我身に課す。その甲斐あって修道士として教会に復帰することを赦されたメダルドゥスは、ローマの地で教皇に関わる政争に巻き込まれるが、降りかかる暗殺の脅威を振り切りドイツの地にあるカプチン会の修道院に帰還する。

 メダルドゥスを暖かく迎えた修道院長レオナルドゥス師は、彼が先々で起こした事件はおろか、ヴィクトリーンやアウレーリエのことも既に把握していた。というのも、ヴィクトリーンは修道院の門を叩き、胸の内を軽くするためにレオナルドゥス師にそれまでの罪について告解していたのである。ところが、ヴィクトリーンはその後罪を悔い改めるでもなく、どこかへと消えてしまう。師はヴィクトリーンには「不治の病である狂気の痕跡」が表れていたと言う。また、師は、アウレーリエも死んではおらずそれどころか彼女も修道院で着衣式を行い修道女ロザーリアになることを告げる。そしてその式典の当日、突然ヴィクトリーンが現れアウレーリエを殺害し、彼女の告解で始まった異母兄弟たちの数奇な運命の物語は終止符を打たれることとなる。そして、彼女の葬儀の後、レオナルドゥス師はメダルドゥスに最後の贖罪の行としてそれまでに経験したことを手記として記すことを命じる。

 以上のあらすじから、メダルドゥスたちが数奇な運命に翻弄されるのは、実は小説の題名でもある彼らが口にした「悪魔の霊液(エリクシル)」のせいではなく、あくまでも彼らの父親の犯した罪のせいであることがわかる。彼の父親フランチェスコは、メダルドゥスとアウレーリエの結婚を仲立ちしてくれた領主アレクサンダー・フォンW侯爵のもとで暮らしていたことがあるのだが、こともあろうに侯爵の弟である公子ヨーハンを殺害し、その許嫁ジアチンタをレイプしていたのである。なお、その結果生まれた男子がヴィクトリーン伯爵なのだ。つまりメダルドゥスとヴィクトリーンの数奇な人生はまさに、父親フランチェスコの犯した罪に起因し、そしてその罪に導かれるように展開していたのである。

 ところが、罪を犯していたのは父フランチェスコだけに留まらない。というのも、フランチェスコ自身、彼の父親つまりメダルドゥスの祖父パオロ・フランチェスコがアレクサンダー・フォンW侯爵の夫人アンジョーラをレイプして作った子供だからである。また、ヴィクトリーンの母親のジアチンタもアンジョーラの兄ピエトロ・S伯爵がパオロ・フランチェスコ夫人のヴィットーリアと不義密通をした結果作った子供であることを言い添えておく。更に、ピエトロ・S伯爵とアンジョーラもパオロ・フランチェスコの父親にしてメダルドゥスの曽祖父フランチェスコがフィリッポ・S伯爵夫人と不義密通をしフィリッポ・S伯爵の子供として生ませた兄弟なのだ。つまり、メダルドゥスとヴィクトリーンという異母兄弟に関わる人間の大半が、不義密通やレイプの結果誕生した存在ということになる。彼らは色情に溺れ過ちを繰り返すわけだが、それこそが悪魔が仕掛けた数奇な運命に翻弄された結果というわけなのだ。

 しかし、そもそもの原因は、更に遡り異邦の画家として度々物語に登場するメダルドゥスの高祖父フランチェスコにあるというのがこの物語の初期設定であることを述べておきたい。画家フランチェスコはイタリアP領侯爵カミッロの長男であったが、後継の身分を捨て芸術の道を進む人生を選択する。カプチン会修道院から依頼された聖ロザーリアの肖像画を作製している際、彼を励まそうとやってきた友人の一人が「聖アントニウスの酒蔵から特別放出の葡萄酒」だと言って差し出した酒を口にすることで活力を得て絵を完成させる。すると、ウェヌス(英語読みでヴィーナスのこと。ローマ神話における愛と美の女神)のような異邦の女性が現れ、たちまちのうちに心を奪われた画家は教会へ行って司祭に婚姻の秘跡取り行ってもらおうと申し出る。ところが「あら、わたしの愛するフランチェスコ、あなたは、キリストの教会の絆には縛られない健気な芸術家ではなかったかしら」と返され、彼女に従うままに画家は「異教の習俗に則って」結婚の儀式をあげる。その後、女性は子供を出産するが、命を落としてしまう。その翌日、司祭から祝福を受けずに婚姻をした廉で宗教裁判所に訴えられるが、逮捕される寸前でローマから逃亡する。こうして誕生したのが、メダルドゥスの曽祖父なのである。

 ウェヌスやアポロはキリスト教の神ではなく異教の神々であることは改めて指摘するに及ばないであろう。つまり、異教の神々の名の下で儀式を行うということ自体が、キリスト教においては冒涜的行為なのである。つまり、確かに高祖父の画家フランチェスコも聖アントニウスの葡萄酒と言われるものを口にはしているが、その後、彼の子孫が呪われた人生を歩むようになるのは、この霊酒のせいというより後に画家が「悪魔の女(das teuflische Weib)」とみなすようになる存在の血を引いているからということになるだろう。

 しかし、大半の国民がキリスト教からみて異教徒にあたる国に住んでいる者として、異教徒と教会の外で結婚したせいで、子孫がレイプ、不義密通や近親相姦を繰り広げるようになるという設定は、正直、受け入れがたいものがある。

 次回は『悪魔の霊薬』というこの小説における悪魔表象を詳しくみていきたい。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)