ロックと悪魔 第13回 プロテスタント文学の悪魔3黒木朋興

それ以前の作品に対して、ホフマンの長編小説『悪魔の霊酒』の最大の特徴は、悪魔が実際に姿を現さないことである。悪魔は人の心に取り憑き、悪事を唆すのだ。

人の心に取り憑くとは、一言で言えば、内面の声ということである。例えば、主人公がアウレーリエの寝室の前を通りかかった時、欲情にかられて部屋に侵入しようとする場面から引用してみよう。

「実行だ、実行あるのみ、なにをためらっている。その一瞬が逃げてしまうぞ」と、内部から見知らぬ力がわたしを衝き動かすのであった。

想いを寄せる異性に無理やり関係を迫るのは明確な犯罪行為だが、そういった「いけない行為」を妄想してしまうだけなら経験のある人も割合いるだろう。そして、この小説のようにそのような衝動を悪魔の囁きと見なすことは確かに可能だ。あるいは、悪魔は主人公の前に出現する具体的な姿を有した存在ではなく、人の内面に湧き上がる悪しき感情の隠喩として描写されているという言い方も出来る。ふと魔が差して犯罪に手を染めてしまう、という設定は物語のテーマとしては決して珍しくはない。悪魔に取り憑かれでもしたかのように自分の中の欲望に抗しきれず犯罪に手を染めてしまう、というこのような描写は、レトリックの範疇であるとも言える。

ところが、こういった内面の声としての悪魔の囁きは他の人には聞こえないものであるのに対し、この物語の主人公メダルドゥスは、実際に自分が発した言葉でさえも自分の意志によるものではないと強弁していることに気をつけたい。誤ってヴィクトリーンを谷底に落としてしまった直後、主人公のことを伯爵だと間違えたヴィクトリーンの家来に対して投げかけた以下の言葉を見てみよう。

「[…] ところで伯爵さま、軍服のほうはどちらに置かれたのでございますか」。「そいつなら、さっき谷底に放り投げてしまった」
とわたしの内部から虚ろで鈍い声を出して答えるものがあった。という言い方をするのも、その時この言葉を発したのはわたしではなかったからで、その言葉は意志にはかかわりなく唇から逸走したのだ、としか言いようがない。

自分以外には聞こえない内面の声とは違って、この発言は家来の耳にしっかりと届いている。にも関わらず、主人公はそれを言ったのは自分ではなく、内面の悪魔であるとするのだ。

更に、メダルドゥスは言葉だけではなく自分の犯した行為すらも悪魔に押し付ける。ここでは、二回の殺人について見てみたい。一回目は、アウレーリエの寝室に忍び込もうとしたメダルドゥスから妹を守ろうと襲いかかってきたヘルモーゲンを、もみ合ううちに突き殺してしまった件である。

痛みと怒りで正気を失い、わたしはかれと取っ組み合いをし、ながながと格闘をし続けたものの、けりがつかなかった。やがて力任せにひと突きをして身をもぎ離した、そこをまたまたかれが襲いかかってきたので、わたしはナイフを抜き放ち、ふた突きした。

襲いかかってくる相手ともみ合いになるだけでは犯罪とは言えない。しかし、主人公は明確な意志を持って相手に対してナイフを突きつけているのだ。

二回目はアウレーリエとの婚礼の日の時のことである。主人公は、通りで分身(ドッペルトゲンガー)の姿を見て正気を失い、事もあろうに婚約者に対してナイフをかざしてしまうのだ。

このとき、わたしの内部で地獄の悪霊たちがいっせいに目を覚まし、神をも冒涜する呪わしい罪人たちを支配すべく授けられていた猛々しい力を奮って起ちあがった。[…] 殺害のための凶器の刃をわたしは引き抜いた - アウレーリエを床に突き倒しておいて、彼女めがけて突きかかった- 血が流れとなって迸り、わたしの手に飛び散った。

この二件の場合、主人公は明確に自分の手で凶行を犯しているのだから、たとえ内面で悪魔の囁きがあったにせよ、そもそもその声は他人には聞こえないのだし、実際に手を下した主人公が犯罪者として糾弾されるのは当然である。にも関わらず、加害者が免罪されるとすれば、それは加害者への精神鑑定の結果、心神喪失と判断される場合だろう。このような場合、心の病の隠喩として悪魔が使用されていると解することが出来る。

以上、精神疾患=悪魔という図式を確認出来たわけだが、それに加えてこの物語には二つ目の悪魔的存在が登場する。それが主人公の分身(ドッペルトゲンガー)であるヴィクトリーン伯爵である。主人公メダルドゥスの証言を見てみよう。

なぜかといって、ヴィクトリーンとはわたしそのひとだからだ。いまのわたしは、そのように見られているものなのであって、そうであるものには見てもらえないでいるのだ。わたしはわたしじしんにとって説明のつかない謎になってしまったのであって、わたしはわたしの自我とはふたつに裂かれて存在しているのだ!

分身(ドッペルトゲンガー)が目の前に現れること自体、不吉な事件の予兆であることは改めて指摘するには及ばないだろう。最終的に主人公のメダルドゥスは、自分に纏わる犯罪を分身(ドッペルトゲンガー)に押し付けてしまうわけだが、メダルドゥスの方にも悪意がまったくなかったわけではない。何より、修道士メダルドゥスは自分と似ているという事実を利用しヴィクトリーン伯爵になりきることによって、修道院の世界からの脱走を試みるのである。

あの説教師は修道士メダルドゥスであったのであり、その男ならもう死んでしまっていて、山中の深い谷底に葬り去られているのだ。このわたしはそのわたしではない。わたしなら、いまここに生きている。いや、わたしにはいまようやく、現世の享楽をあれこれ提供してくれる人生が、あらたに開けたばかりなのだ。

明らかに主人公には自分の愛欲といった快楽の追求のために、自分の分身(ドッペルトゲンガー)であるヴィクトリーン伯爵を利用しようとする意志があったことは明らかだ。

ところが、いざ罪に問われると主人公は「不治の病である狂気の痕跡」を持つヴィクトリーンに全てを押し付けてしまう。

分身(ドッペルトゲンガー)の姿が目のあたりに浮かんだ。- そうなのだ、わたしのあとを追って走りつづけ、わたしを内面の芯の芯までずたずたに切り裂こうとした怪物のように、わたしの肩にうずくまって離れなかったのは、あれは実体のない恐怖を惹き起こす狂気の妄想が産んだ悪魔などではなかった。あれはじっさいに逃亡していた狂気の修道士だったのだ。その狂気の修道士が、わたしのあとを追いつづけ、わたしが深い失神に倒れたとき、ついにわたしから着ているものを奪い取り、脱ぎ捨てた修道服を、代わりにわたしのうえに投げかけていったのだ。修道院の門前で倒れていたのはその男だ。その男がわたしを、身震いしそうな手を使って演じていたのだ!

幸いなことに同じ修道会に属する兄弟キュリロスも以下のように断言し、彼を悪魔の手から救い出そうとしてくれる。

きみの名前を、きみの着衣を、きみの姿を騙って欺しを働き、あの凶行を犯し、あやうくきみを殺人者という不名誉な死へと引きずりこむようにしたのは、ほかにいた悪魔のような偽善者だったのだよ。

いくら父祖から受け継いだ罪から主人公が救済されるのがこの小説の主題であるからと言って、全てをヴィクトリーンに押し付けるのは流石に無理があるように思えなくもない。結婚式当日に主人公が婚約者アウレーリエにナイフをかざした時には、ヴィクトリーンはただ彼の前に姿を現し言葉で挑発しただけで暴力行為を行なっていない。また、ヘルモーゲン殺しの時は、メダルドゥスには明確にアウレーリエの兄を刺したという自覚があるのである。ヴィクトリーンはそこに居合わせたことは事実だが、彼がそこで何をしていたかについてははっきりとした描写がない。ただ、仮にメダルドゥスが逃げ去った後でヘルモーゲンに止めを刺したのがヴィクトリーンだったとしても、主人公には確かにナイフで突いたという自覚がある。もちろんこの時メダルドゥスは自分が発したはずの言葉に対して「わたしではなかったのだ。かれ[ヴィクトリーン]がその言葉を喋っていたのだ」と述べるくらい錯乱しているので、作者であるホフマンは、もしかするとこの殺人は主人公の犯行ではないのではないか、という読みの可能性を読者に残してはいる。しかし、あまりにもこの設定は主人公に都合の良すぎるとは言えないだろうか?

実際のところ、同じ父親を持つ異母兄弟で同じように「狂気」に取り憑かれたこの二人を分かつものはなんだったのであろうか? それは主人公メダルドゥスが修道会に入り、神に仕える存在だったことではないだろうか? 主人公が幼い頃、老修道士が彼の母親に言った「いまはまだ父御の罪が、ご子息のなかで煮えたぎり煮えくりかえっている。それでも、ご子息はいずれ信仰を護る闘いへと飛び立っていかれるでしょう。ご子息はぜひ聖職者の道にお就けなさるがいい!」という忠告は当たっていたことになる。

すなわち、凶行を重ねたにも関わらず、彼が免罪されるのは、彼が自身の罪を悪魔に押し付けることが出来たからだと言って良い。その悪魔とは、彼の内面の中にいる悪魔と彼の分身(ドッペルトゲンガー)であるヴィクトリーン伯爵の二つであった。まさに、この小説はこの二つの悪魔的存在を絡み合わせることによって、一人の修道士の数奇な運命を描くことに成功していると言える。

もちろん、この二つの悪魔的存在の背後にはサタンがいることは疑いはない。この小説には、各所にサタンが地獄から主人公たちの人生に影響を及ぼす様子の描写がある。例えば、メダルドゥスが領主であるアレクサンダー・フォンW侯爵にカードゲームに誘われた際、クイーンの札にアウレーリエの面影を感じクイーンにのみ賭け金を投じることを決めると奇跡的に連続してクイーンが勝ち札となり大勝ちをするというシーンがある。メダルドゥスはこの時、何か不思議な力の存在を感じる。

さきごろ当てずっぽうに発射した弾が幸運にも山鶉を撃ち落としたことと、きょうの幸運とのあいだにある種の神秘的関連があるように思え、奇蹟とまごう不思議さを感じた。こうした尋常ならざることを惹き起こすのはこのわたしなのではなく、わたしの実体にはいりこんできている異質の世界の力であることは明らかで、わたしじしんはといえば、ただそういう力に、なんの目的もためかもわからぬままに仕えているだけの意志を持たぬ道具、それにしかすぎないことは明らかなことであった。

このサタンの神通力は断じて、彼だけが感じている妄想の類では断じてない。レオナルドゥス師も、後から一連の事件を振り返って、このように断言している。

いいかね、きみの秘密にみちみちた人生は、そのじつに不思議な絡み合いを考えれば、君じしんよりもわたしのほうが精通しているはずだ。- きみが逃れなれなかった悲運が、サタンにきみを支配する力をあたえてしまい、きみは瀆神行為を犯すことによって、サタンの道具になっていただけなのだ。だからといって、主の眼のみまえにありながら、きみの罪が軽減したなどと妄想を抱いてはならない。

サタンは決して主人公たちを始め現世に生きる人間の前には姿を現さないものの、弱い人間に取り憑きその人生を破滅させようとする。そして、人々は姿の見えない悪魔の影に怯ええつつ生を営んでいるのだ。そしてこのような悪魔の脅威は、作中人物たちの間で共有されていたと言える。例えば、アウレーリエがシトー会女子修道院院長宛に書いた手紙から引用してみよう。

ある日一人の聖職者が、我が家には以前からよくおみえになるかたでしたが、父を訪ねていらっしゃいました。悪魔があの手この手で誘惑する話を披露してくださり、若い人間の魂が慰めを失って絶望している状態というものを説明なさったうえ、およそ悪魔というのは若い人間の魂に乗りこむ路線を敷設しようとするものであって、悪魔にしてみれば、若い人間の魂ほど抵抗力の弱いものはないと思っているのですぞ、とおっしゃるのを伺ったときには、わたくしは自分の魂にあれこれ火花のひらめくのをおぼえたものでした。 

このようなサタンの脅威こそが、実は「悪魔の霊液(エリクシル)」であったのだ。確かに、物語の中で何回か現実の酒が登場し、それを口にすることで主人公たちの人生が狂っていったかのように見えないでもない。しかし、彼らの呪われた人生は、この霊液(エリクシル)を口にしからというよりは、彼らの高祖父フランチェスコが異教の女と「異教の習俗に則って」結婚の儀式をあげ、彼女との子供をなしたことにあることは既に見た通りだ。あるいはこの「悪魔の女(das teuflische Weib)」から受け継いだ血筋こそが元凶であったのである。ということは、「悪魔の霊液(エリクシル)」は、いかがわしい女に欲情し関係を結んでしまうこと、あるいはその女の血筋自体の隠喩として機能している、と言うことが出来るだろう。レオナルドゥス師は言う。

ああそれにしても、兄弟メダルドゥス、いまなお悪魔は休むこと間もなく地上をうろつきまわっては、人間たちに悪魔の霊液(エリクシル)を供与しつづけているのだ!- この地獄の悪魔の飲み物あれやこれを味わって、それを美味だと一度も感じなかった者などいたろうか。だが、それも天の御心なのだ。人間よ、ほんの一瞬の軽率が惹き起こす悪しき働きかけをもしっかり意識して、その明晰な意識にもとづいて悪しき働きかけに抵抗する力を創造するようにとの、天のご意志なのだ。自然界の生のなんたるかが毒によってその条件が決定されるのに似て、人倫にかかわる善なる原理のなんたるかも、自然界においては悪によってはじめてその条件が決定される、というこの事実に、主の御力が明らかに啓示されているということになる。

ここでは、悪魔からの誘惑こそが「悪魔の霊液(エリクシル)」として扱われていることが分かるだろう。

最終的にアウレーリエは、ヴィクトリーンにナイフで刺されて殺されてしまう。ヴィクトリーンは狂気=悪魔に侵された人間として追われることになる。対して、主人公メダルドゥスのみが救われる。アウレーリエが修道女になるための儀式に出席したメダルドゥスは彼女の姿を見るや狂気に駆られるのだが、彼女に襲いかかろうという感情を必死に抑え「瀆神の黒い想念」を一掃することに成功するのだ。その主人公に対してレオナルドゥス師は「敵に抵抗しきったのだね、わたしの息子!おそらくこれが、きみにとっては最後の試練だったのだ。永遠の御力がきみに課せられた試練だったのだよ!」と声を掛ける。更に、高祖父と思われる老齢の画家が現れ、「幸いなるかな、メダルドゥス、もうまもなくきみの試練の時も終わりだ。-そして、そのとき、わたしにとっても幸いなるかな!」と告げる。高祖父フランチェスコが異教の女と恋に落ち、「異教の習俗に則って」結婚の儀式を行なって子をなすという罪が、ようやく主人公によって償われたということだろう。

以上のように、この小説においてはサタンは具体的な肉体を持って人間たちの前に姿を現すことはない。あくまでも人の心に取り憑き、悪事を働かせようとするのだ。敢えて言えば、メダルドゥスの高祖母にあたる異教の女を悪魔と見なすことは出来るかもしれない。ただし、彼女は霊的な存在である堕天使ではなく、ウェヌス(=ヴィーナス)といった異教の神を奉じる人間であるとした方が正確だろう。何より、この作品で最大の脅威として描かれている悪魔は、個人の弱い心に語りかけ誘惑している欲望なのだ。

好みの異性を前にふといけない妄想が心の中に浮かぶ、という経験のある人は割合いるのではないだろうか? もちろん、それを実行に移してしまえば犯罪となる。だからこそ、そのような妄想はあくまでも心の中に留めておき実際に行ってはいけないことは改めて言うに及ばないだろう。この作品はその邪念を悪魔の囁きと捉え、その誘惑に打ち勝ち行動を節制することを悪魔との闘いと捉えているのだ。ゲーテの『ファウスト』においては悪魔であるメフィストフェレスが具体的な身体を持ってファウストの前に姿を現すの対し、このホフマンの『悪魔の霊酒』においてはサタンは姿を現さない。ただ人間の心に囁きかけ誘惑するのみである。すなわち、個人の心の中の葛藤を悪魔との闘いと位置付けたところに、この小説の特徴があると言って良いだろう。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)