ロックと悪魔 第十七回  Black Sabbath1黒木朋興

ロックに悪魔というテーマが深く結びついていることは、今や多くの人々に共有されていると言って良いだろう。例えば、日本のロックミュージシャンを主人公にしたみうらじゅん氏の漫画『アイデン&ティティ』に登場するスピードウェイという主人公たちのバンドの代表曲には「悪魔とドライブ」というタイトルが与えられている。ロックをテーマにしたフィクションの中で当たり前のように悪魔が語られる点において、ロックと悪魔というテーマが一般的に広まっていることが確認できるだろう。なお、この作品は2003年に田口トモロヲ監督の手で映画されていることを言い添えておく。

スピードウェイは1980年代後半に起こったバンドブームの中から登場したという設定になっており、ヘヴィメタルというわけではない。しかし、様々なロック音楽の中で特に悪魔表象を前面に押し出したのが、ヘヴィメタルである。以下、ヘヴィメタルを中心に具体的にロックと悪魔というテーマを追ってみたい。

Black Sabbath Black Sabbath

1970年2月13日の金曜日、ブラック・サバスのファーストアルバム『ブラック・サバス』がリリースされる。ヘヴィメタルの記念すべき第一歩である。「黒い安息日」と訳されることの多いブラック・サバスではあるが、「サバス」は「安息日」ではなく、悪魔崇拝の宴の意味の「サバト」と取り「黒いサバト」と訳す方が正確だろう。

ロックはアメリカのブルーズやロックンロールなどの黒人音楽をもとにし、1960年代にアメリカやイギリスで発展したポピュラー音楽である。特に60年代のイギリスではビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フーやキンクスなどのバンドが登場し、ロックの流行は世界へと広がっていくこととなった。

1970年代に入るとロックは様々な要素を取り入れ様々な方向に発展していった。PAシステムを用いたエレキ楽器の大音量を頼りに激しさを売りにしたハード・ロックやクラシックの要素を取り入れより複雑な楽曲を目指したプログレッシブ・ロックなどの登場である。そしてハード・ロックの中で悪魔表象を前面に押し出したバンドがブラック・サバスであり、そのデビューと共にヘヴィメタルが産声をあげたのだ。『魔獣の鋼鉄黙示録 ― ヘビーメタル全史』のイアン・クライストは言う。

揃いの銀の十字架を首から下げたブラック・サバスのメンバーは、当時に流行していた黒魔術や神秘主義をモチーフに、気味の悪いイメージを築いていった。悪魔主義者を自称して悪名をいっそう高め、何度か保守系のキリスト教団から正式に抗議された。それまでのロックスターは、花、パレード、世界を変える約束によって大衆の気を引いていた。そのいちばんあとから意気揚々とやってきたブラック・サバスは、彼らと同じく愛の必要性を説きながら、神の恩寵はもう期待できないとはぐれ者たちに警告した。ポップスには「女性に悩まされる男性」をうたった楽曲が多かったが、サバスは父親のいない子供や世間にはびこる邪悪をテーマとした。

彼らが悪魔を崇拝していたわけではなく、戦略として悪魔のイメージを押し出すことを選択したということだろう。

まず、彼らのファーストアルバムの冒頭を飾る「ブラック・サバス」という曲をみてみたい。プロテスタン文学における悪魔表象の特徴が如実に表れているのが分かる。

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雨の中、雷と鐘の音の効果音が鳴り響いている上にソ-ソ-ド#(G3 G4 C#4)の三つ音からなるリフレインで曲が始まる。ソ-ド#という増4度の音程が、聴くものの不安感を掻き立てる。

歌詞を見ていこう。「私」に前に黒い人影があり「私」を指差している。この黒い人影はまさに悪魔であり、「私」は悪魔に選ばれてしまったようだ。「私」はこの黒い影に背を向け駆けて逃げ出す。この黒い影は悪魔、それもサタンであると歌詞には明示されている。目は炎のように燃え盛り、座ったままこちらを見て笑っている。すなわち、この曲はサタンを前にした恐怖を歌っているということになる。

悪魔と対峙する個人

ここでは「私」という一人の人間がサタンという一柱の悪魔=堕天使と対峙しているという、悪魔と人間の一対一の関係にスポットが当たっていることに注意したい。つまりサタンを前にした「私」という一個人が抱く内面の慄きという主題こそ、プロテスタントが宗教改革以降の信仰生活に出現させてしまった悪魔なのではないだろうか、と考えられるからである。

ここで悪魔の力が増大したプロテスタントの思想を再度確認しておこう。カトリックは教会で司祭が聖体拝領を執り行うことによって神が臨在する。つまり聖体拝領の儀式を通して現実の存在として神が現れるのだ。そして神の身体そのものになるパンを食べることによって信徒は神と一体となり、更にやはり聖体のパンを食した他の大勢の信者とも一体となる。つまり教会で司祭が仕切る儀式を通して神や他の信者達との交流を果たすのだ。対して、プロテスタントの改革の肝は、神にアクセスするのに教会や司祭を頼るのではなく聖書の読書を重視したことである。これはカトリックの司祭に権力が集中することにより教会組織が腐敗していったのを目の当たりにしたプロテスタント諸派が、旧教の信仰の在り方を反面教師としたからなのだ。カトリックの司祭がパンをキリストの身体に変え、神を臨在させることのできる聖職者であるのに対し、プロテスタントの牧師は信徒を導くものに過ぎず、あくまでも他の信徒と同様に人間であって聖職者ではないことを確認しておきたい。プロテスタントの信仰にとって教会は副次的なものに過ぎず、重要なのは聖書の読書なのである。つまり、個人個人が自分で聖書を読むことによって神の教えを理解し神の真理に到達するべく努力せよ、というわけだ。

もちろん、プロテスタントの信徒が一切の集団活動をしないわけではない。それどころが、日曜日毎に教会に集まる機会を活用し、社会問題について話し合い、それを基に政治活動を展開していくこともある。実際、その手法の巧みさには感心させられることが多い。にも関わらず、教会という場に臨在する神を介して信徒が一体となる聖体拝領(communion)という儀式を重じるカトリックと比べた場合、概してプロテスタントの集会に神は臨在しないし、一人で聖書に向き合うことで信仰を深めることが重要とされる。

となれば、悪魔に対して個人で対処しなければならなくなる局面が増えるということでもある。悪魔と一人で戦わなければならないとなると、これはかなりハードルが高いと言わざるを得ないだろう。対して、カトリックは教会に逃げ込み、司祭や他の信徒たちと共闘するのが一番の方策になる。何故なら教会は神が臨在する場所であるからだ。既に何回も指摘したように、神と悪魔の力の差は圧倒的で、悪魔は神に対して面と向かって歯向かうことなど出来はしない。神に挑んだ悪魔は文字通り瞬殺の憂き目に遭うことになる。だとすれば、教会の中にいる人間には悪魔は手出し出来ないということになる。つまり、カトリック信徒は、神に支えられた仲間たちと共に悪魔に備えるのである。対して、プロテスタント信徒は孤独の戦いを強いられる傾向が強いと言えるだろう。

悪魔=欲望の誘惑

ここで悪魔と何か?について考えてみよう。一言で言えば、悪魔とは誘惑する存在だと言える。ホフマンの小説『悪魔の霊酒』を思い出してみよう。この小説では、主人公の司祭メダルドゥスの心に湧き上がる憧れの女性アウレーリエへの恋心を、悪魔からの誘惑と捉え、それを抑制することを悪魔との戦いと見做していた。主人公が修道会に属する以上、女人との交わりは御法度である。しかし、呪われた運命に翻弄される主人公はアウレーリエへの思いを募らせていき、その道ならぬ恋が招き寄せる様々な事件に翻弄される。この作品では異性に対する性欲を扱っていたが、他にもギャンブル、アルコールや薬物への依存から生じる心の迷いも悪魔からの誘惑と見做されることを言っておく。

このような依存からの脱却は、現在では心療内科医の下で医療行為として行われる。その中心は、医者によるカウンセリングに加えて、患者同士による集団療法であることを思い起こしておこう。つまり、彼らは定期的に交流を持ち励まし合いながら依存から抜け出そうと努めるのだ。依存症に苦しむ個人が孤独のうちに欲望に抗い、自らを律し品行方正な生活を回復するのは極度に難しい。そこで集団治療が必要になるわけだが、そこでの指導に従っていても、田代まさし氏の再逮捕に見られるように回復には何回もの挫折と長い時間が必要となるのだ。

ここで、カトリックのサクラメントにはこのような治療と同種の機能があることを確認しておこう。告解、あるいはゆるしの秘蹟はカウンセリングに相当するし、他の信徒たち共に神と一体になるミサは集団療法に相当する。キリスト教は集団での癒しの効果に注目し、信仰生活の中に取り込んでいたとも言えるだろう。このような仕組みの中で司祭に権力が集中したが故に教会が堕落したことを批判し改革運動を展開していったのがプロテスタント諸派であったことは既に見た通りだ。

神の真理に触れるための行為として、教会のミサに集い神父の話に耳を傾けるより、個々人が聖書を読むことに重きを置いたプロテスタントにおいては、個人の努力が求められる傾向が強い。もちろん、プロテスタントにも教会はあるし、そこに人々が集い様々な活動が行なわれている。また、自然科学の見地から教会での癒しの行為を病院における医療へと移していったものが心身医学と呼ばれるものであるのだろう。

ただ、信仰の形態としてプロテスタントは、カトリックのように集団での儀式より、個人による聖書の読書を中心に据えていると言える。となれば、性、ギャンブルや薬物などの誘惑に対して、独りで立ち向かわなければならないという感情が信徒の心で大きくなっていったと考えても不思議はない。

以上のことを踏まえると、「ブラック・サバス」という楽曲の歌詞は、まさにプロテスタント信徒が自らの心に生じる様々な欲望を悪魔からの誘惑と捉え、それに怯えるという心象風景を描いたもの、と解釈することができるだろう。

プロテスタント信徒の悪魔

まとめてみよう。心に生じた性的衝動や薬や賭け事に手を出したくなる欲求を、キリスト教徒は悪魔の囁きと捉える。信徒はその誘惑を撥ねつけるために神へ助けを求める。教会で司祭に話を聞いてもらい、他の信徒たちと共に臨在した神と一体となることで悪魔に抗する、というのが古来キリスト教徒が取ってきた闘い方である。しかし、それ故に司祭たちが権力を濫用するようになり教会組織が腐敗したことに対して、プロテスタントは抗議の声をあげた。何より、カトリックを悪魔とみなし徹底的に抗戦したプロテスタントにとって、カトリックの教会は悪魔からの避難所どころか、悪魔に乗っ取られた邪悪な巣窟であったのである。彼らはカトリックを反面教師とし教会での儀式ではなく、聖書の読書を通して神の真理の追求をすべしと主張した。つまり、信仰の営みは集団から個人へと軸足を移したことになる。プロテスタント信徒にとっては、個人で孤独のうちに悪魔と対峙しなければならないというリスクが高まったことになる。つまり、プロテスタントはまず宗教戦争を通して攻め寄せてくる強力なカトリックを悪魔と見做したことで、悪魔を現実のものとしたことを思い出しておこう。更に加えて、この悪魔に個人で対峙しなければならなくなるリスクが高まったことで、悪魔はプロテスタントにとってより脅威的な存在となっていったのである。

まさに、ヘヴィメタルバンドBlack Sabbathのこの曲は、悪魔に怯える個人の心象を見事に表していると言えよう。そして悪魔の影に慄く一個人の内面の描写こそ、まさにプロテスタント文化の特徴になったと言えるのではないだろうか。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)