物件化としての商品化田上孝一

20回の長きに渡って連載した「楽しく学ぶ倫理学」の後に、数回続けて近年出版した編著を紹介するコラムを書かせていただいた。その間に次の連載の準備を進めるつもりだったが、まだ十分ではないので、今しばらく単発のコラムを書かせて貰いたい。前回までのように自著の紹介をずっと続けることもできるが、今回は前回のコラムでも取上げた私のメイン研究テーマであるマルクスについて、最近改めて気付いた論点に関して、正式な論文という形ではなく、発想ノートのような幾分砕けた形式で説明することにしたい。

マルクスを本格的に研究し始めて30年余り経ち、その間の研究成果は4冊の単著を中心として数多く活字化してきた。マルクスと言えば研究文献は勿論のこと、原典自体が膨大ではあり、研究には多大の労力が必要とされる。とはいえ、研究上の典拠とされる文言はある程度限られており、そのため、研究を続けている限りそれら重要なマルクスの文言を繰り返し読むことになる。それらの中には意味が明瞭であり、解釈上の論争点がないものもあるが、文章自体の難解さや、解釈者がそれとは知らずに囚われている、歴史的に形成されたバイアスにより解釈が歪められがちな、論争的なものもある。

そうした難解ではあるが興味深い内容を含んだ文章をこれまで数え切れないほど繰り返し読み続けているが、まだまだ新たに発見することが多くて、マルクスの古典としての奥深さに、いつも感嘆している。例えば前回コラムで紹介した『ゴータ綱領批判』のゲノッセンシャフトの解釈であるが、なぜマルクスがアソシエーションではなく敢えてゲノッセンシャフトという語を用いたのかという理由が、ヘーゲルのトリアーデから国家を否定してしまった結果、家族的な原理しか残っていなかったためだとした。

気付いてみれば当たり前の話で、それがためにマルクスは既に若き日の『経済学・哲学草稿』で労働者の「兄弟的な連帯」を理想とする文言を遺したのだった。『ゴータ綱領批判』と『経済学・哲学草稿』では30年以上の開きがあるが、マルクスの中では一貫した前提だったわけである。『ゴータ綱領批判』の難問が解けたお陰で期せずして、逆に以前から唐突の感を抱いてきた『経済学・哲学草稿』の箇所の真意も理解できたのである。ここにマルクス研究の尽きせぬ面白さがある。

ところで、私はこれまで30年余りマルクスを研究してきたと書いたが、これは大学院に入ったのが1989年だからであり、それ以来ということを意味する。しかし私のマルクス研究がある程度知られるようになったのは2000年に出版した博士論文『初期マルクスの疎外論』(時潮社)からだろうと思う。本格的に研究を始めて10年余りの研究成果をまとめたもので、実質的にも個人的な感慨としても研究に一区切りをつけたものになった。それ以降もマルクス研究を続けてはいたが、マルクスでは暫く単著を出すには至らず、マルクス関係の二冊目の単著を出すには2013年までかかった。しかしその後は2015年、2018年と早いペースで出し続けて、先に述べたようにマルクス関係の単著が4冊になっている。こうした出版事情のせいか、最近新たな読者を多く獲得することができ、特に若い世代を中心に、拙著がマルクスへのよい入門になったという嬉しい知らせを数多く受け取ることができた。と共に、図らずもこれまで発表してきた幾つかの旧稿が、私自身が思っていたよりも多くの読者を得ていたことを知ることにもなった。

特に「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」という論考である。これは依頼されて経済学理論学会の機関誌『季刊 経済理論』に寄稿したもので、2011年のことだった。廣松渉特集ということで私にもお鉢が回ってきたという形だったが、実を言うと当初は気乗りがしなかった。というのも廣松というのは私にとって完全に「過去の人」だったからである。確かにかつて上記博士論文で廣松のマルクス研究を徹底批判して、それがために依頼されることにもなったわけだが、徹底的に批判したということはその前提として大量に廣松の著作を読んだということであり、これは実に苦痛な、うんざりする作業だったからである。いいことや為になることが書いてあればよかったのだが、碌でもないことばかりであり、それだからこそ批判もしたのだが、批判するからには斜め読みは許されず、読書自体は誠実に根を詰めて行わざるを得なかった。このため、依頼された時点の私は、「廣松はもういいよ」という気持ちだったのである。しかし名前は伏せるが、依頼者が親しい研究仲間であり、今や日本を代表するマルクス経済学者の一人であったことと、マルクス経済学のメイン学会の機関誌に依頼論文が掲載されるというのはやはり光栄なことでもあるので、引き受けることにした。

引き受けるからにはよい物にしようと思い、論文内容と直接関係する廣松の著作を読み返したりして、全力投球で執筆した。このため内容には自信があったが、依頼者とは別の編集委員から奇妙な理由で元原稿の一部内容の削除を要求され、不本意ではあるが不完全な形の修正稿を再提出して受理され、これが掲載されることになった。

不完全な形ではあるものの、基本的には渾身の力を込めた論考であり、自信作には違いがなかった。しかし、詳細は書かないが、畑違いの無知な者から酷評される事件があった。愚か者の妄言とは知りつつも、論文というのは自らの分身のようなものであり、自信作にけちをつけられて、大いに傷付いたものである。とはいえ、気を取り直して、この論考を不本意な不完全版ではなく、本来の完全な形で2013年の単著『マルクス疎外論の諸相』(時潮社)に再録することにした。このため、著者としてはこの論文は単著収録バージョンで読んで欲しいのだが、ネットでDLできることもあり、今でも『経済理論』の版が読まれることが多いようである。

それでも、この論文の核となる部分は修正箇所とは別であり、不完全版でも問題なく主旨は伝わる。この論文はタイトルの通り、前半でマルクスの物象化論について、原典解釈に基づいて概念規定を行い、後半で廣松の「物象化論」が存在論的なカテゴリーであるマルクスの物象化論を認識論的カテゴリーに歪曲したものだと批判した。この結論自体は、既にまだ20代で書いた「廣松渉哲学の虚妄性」(1996年。博士論文に再録)の内容を再確認するものであり、この結論に関しては、今でも全く修正の必要を感じていない。

ただ、この論文の力点は本題である廣松批判よりもむしろ、批判の前提となるマルクスの物象化論についての分析にあった。そしてこの分析の結論的な内容自体も同じように若き日に書いた「物象化と物神崇拝の関係」(1997年。『マルクス疎外論の諸相』に再録)での議論を改めて丁寧に論じ直すというものだった。

その意味で、以前から私の論考を知っている読者には特に目新しいところはなかったはずであるが、博士論文以来の主張が新たに短く整理されて展開されているこの論考で初めて私のマルクス論を読み、新鮮な驚きを得る読者が少なくなかったことを後々知り、逆に著者として驚かされた次第である。

私の理解では、マルクスの物象化論は物象化論であって物象化論でない。そもそも「物象化」という訳語自体が概念の真意を歪めるものだからだ。物象化という言葉からは普通、物ではないものが物のように現象するという含みがあるように受け止められるのではないか。まさに廣松はこの日本語の語感に最大限依拠して、彼の物象化論を展開したのであった。しかしマルクス自身の言葉であるVersachlichungには、物ではない何かが物のように現象するという意味はない。これは文字通りSachでないものがSach化するということを意味する。Sachになるのはその反対物であるPerson=人格である。つまりVersachlichungとは、物ではなくて人格的存在であるはずの人間が、物のようになってしまうことを意味する。従ってこの概念には、人間は物のように扱われてはいけないという価値観が前提されている。人間は物のように扱われてはならないから、奴隷のように首に値札を掛けて売買されてはいけない。そのような人間はもはやPersonではなくてSachである。この場合Sachの第一の意味は、それが手段的に売り買いされてしまうことのはずである。「物象」の訳が正しくないのは当然のことだ。常識的な日本語の用法では、売り買いされるような物を物件という。従ってVersachlichungは物象化ではなくて物件化である。ところが、これまでの我が国のマルクス研究では、マルクスが人間の「モノ化」の話をしているという本筋が殆ど理解されてこなかった。このため「物象化」という、認識論主義的理解を惹起する訳語が、余り反省されることもなく定訳化してしまい、それがためにマルクスの正しい理解が妨げられるという事態が今も続いている。

この論点と共に私が強調していたのは、物件化の原因にして本質であるのは疎外だということである。労働が疎外されるからこそ労働者はその人格性を失い、労働力商品というSachになってしまう。従ってマルクスの物件化論は疎外論と並び立つ機軸的な理論ではなく、疎外論を前提とした派生的な議論であり、疎外論の有機的な構成部分として、疎外論の一部を成すものだということである。

以上の認識はこれまでことあることに繰り返してきたが、先ごろ出版して予想外の好評で迎えられた『マルクス哲学入門』(社会評論社、2018年)において、『資本論』の哲学を論じた章での論述を最近になって改めて振り返ってみて、新たに気付かされた論点があった。それは物象化を講じる多くの論者に欠けている視点であり、私自身もそこで自分がした議論の根本的な重要さに気付かなかった論点である。

それはつまり、マルクスの物件化論というのは、多くの論者がただそれのみを言うように、資本主義において労働者がSachに支配されることや、賃労働が転倒した人間関係であることだけを言うためのものではなかったということである。それだけならば商品論で十分なのである。

資本主義において人間は労働力という商品になり、資本に買われて使役される。ほぼ全ての論者はこの事態をただ哲学的カテゴリーで表現するために物象化という用語を使ってもっともらしい議論に見せかけているだけではないかということだ。しかしこれだけならば、人間の商品化というロジックさえあればいいのではないか。なぜ「物象化」なる用語が必要なのか。ただ人間が商品化されていると言えばいいだけではないか。不必要に概念を増やすことは、かえって議論の混乱を招く。実際これまでの「物象化論」は問題を明確にするよりも、むしろ勿体ぶった神秘化を促進してきたのではないか。

しかし問題は商品化の事実にあるのではなくて、それの価値判断にあるとしたら話は異なる。マルクスが人間の商品化を語るのみではなく商品化による物件化を語ったのは、商品化そのものの倫理的位置を明確にするためではなかったのかということである。

『経済学・哲学草稿』で若き日のマルクスは、それによって人間の自由意志を損なうが故に労働の疎外は望ましくないとした。『資本論』では疎外によって生み出される資本主義は、商品を細胞とする集積体だとされた。つまり労働者の自由意志を否定することによって商品経済は成り立つのである。『マルクス哲学入門』で私は、高い賃金によって例え労働力商品が適切に値付けされ得たとしても、人間が商品化されることそれ自体をマルクスは拒否したと記したが、まさにそれはどのようなあり方であっても商品経済それ自体が、人間にとっての最も重要な価値である自由を損なうがために許容できないということだったのである。これこそが物象化論ならぬ物件化論の真実の理論的射程だったのである。

つまり物件化という概念は、商品化を言葉を変えて説明し直すために使われたのではなく、商品化がなぜ悪いのかを批判するための基準として用いられたということである。資本主義がなぜ批判されるべきかと言えばそれは人間を商品化するからである。これまでのマルクス主義文献は基本的にここまでで終わっていた。しかしこれでは、人間の価値を直ちに収入で測るような、資本主義的価値観に浸かった多数を説得する論理にはなり得ない。しかし商品化それ自体が自由であるべき人間を損なうという話ならば、近代的価値の精華として遍く許容されている自由という根本的価値を毀損するという、単なる商品化論では得られない説得力を持つことができる。これが物件化論の真意である。物件化論とは商品化論を単に哲学的に韜晦にした説明理論ではなくて、商品化それ自体を否定的に評価するための批判的な規範理論だったということである。

無論物件化論がこのように人間的自由を標榜する価値的な議論であるといっても、なお人間にとって自由など何ほどの価値もないという批判は可能である。これはこれで本来の論敵が現れたと考えることもできるが、人間にとっての自由を軽視する議論が重視する議論よりも強い説得力を持って多数に支持される可能性は希薄なのではないかと考えられるのである。

以上が最近気改めて気付いた理論内容である。今後はこの理論をなお一層精密化し、著書や論文で活字化して行きたい。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)