ロックと悪魔 第一回黒木朋興

はじめに

この連載を始めるにあたって、まずはそのきっかけについて述べておきたい。

ロックと悪魔

ヘヴィメタルというロック音楽とキリスト教思想、特にプロテスタントとの関係を考えるのがこの論考の目的である。さらに、それを通して同じキリスト教とはいえ、カトリックとプロテスタントでは悪魔に対する考え方に違いがあることを説明する。
中学の頃、ヘヴィメタルの洗礼を受けた。その悪魔の表現に惹かれたのだ。その頃は単に悪魔のおどろおどろしい姿がかっこよく見えただけで、小学生の時に水木しげる氏の描く妖怪の世界に惹かれたのと基本的には同じであったと思う。悪魔がどういった存在だとか、神とどういう関係を持っているとか、キリスト教文化の中で悪魔を描くことが社会的にどういう意味を持っているかなど、こういった問題に関してはまったくと言って良いほど知らなかった。悪魔を描くこと、キリスト教の教えの面から言っても、歴史的に言っても、そこには重要な意味がある。たとえそれがロックという「低俗」な音楽だから大した問題にはならないというのではなく、逆にポピュラーカルチャーだからこそ、悪魔表象は重要な意味を有していると言える。実際、ロックのアーティストたちが行う悪魔描写の果たす役割は極めて大きい。
ロックとは何だろうか? メロディ、和声やリズムなどの「純音楽的要素」のみで定義することは難しい。確かに、ペンタトニックスケールを基本としたメロディ、エイトビートといったリズム、そして1度、4度と5度を中心とした単純なコード進行といった説明も可能だろう。しかし実際には高度で複雑なロックというのもあり、到底上記の条件に適うものだけをロックとすることはさすがに無理がある。
では、何がロックを規定しているかといえば、やはりその思想だと言えるだろう。社会的に抑圧を受けている人々が、その不満の言葉を音楽に乗せて訴えることがロックの原型だと言っても過言ではない。それだからこそ、初期のロックで単純な音楽が好まれたのも合点がいる。それはおそらく、ヒップ・ホップにおけるラップといった歌い方あるいは歌詞の朗唱の仕方についても同じだと言えるかもしれない。

ハロウィンとプロテスタント

ことの始まりは、友人のフランス人デザイナーのジェラルド・ワッセンが来日した折に、東京の街のハロウィンの飾り付けを見て「フランスはカトリックの影響が強くて、こんな風にお化けだとか悪魔だとかを持ち出してお祭り騒ぎをすることには抵抗が強いんだ。それに対して、アメリカみたいにプロテスタントが強いところは自由で良いなって感じるね」と私に呟いたことがきっかけであった。よく知られているように、ハロウィンは特にアメリカで盛んなお祭りだ。このジェラルドの見解が正しいかどうかはひとまず置いておく。しかし、確かに悪魔を描くことに関して、カトリックとプロテスタントではその扱い方が異なることに、その時、改めて気が付いたのである。そして、これはちょっと調べてみる価値があるかも知れないぞ、と思ったわけなのだ。
そうして考えてみると、ヘヴィメタルが盛んな土地と言えば、発祥地のイギリスを始め、アメリカ、ドイツ、そして北欧の国々と、そのほとんどすべてがプロテスタント地域であることに気づかされる。対して、カトリック圏であるイタリア、スペイン、ポルトガルやフランスにはハードロックはあれど、ヘヴィメタルのバンドと言ってもなかなか思いつかない。第一、ギターソロのところでパコ・デ・ルシアばりのフラメンコギターのソロが聞こえてきたら、正直、興ざめだろう。やはり、ヘヴィメタルとプロテスタントにはなんらかの関係があるのではないだろうか?とそう考えたのである。
また、私がフランスに滞在した折、あちらこちらの教会を見て回り、時にはミサに出席をしたりなどした経験も大きかった。カトリックの教会は悪魔とはまったく無縁な場所だったのである。それまで私は何故か教会は悪魔の出てくる場所だと勘違いしていた。子どもの頃、縁日のお化け屋敷で廃寺の坊主のお化けが出てきたりした記憶も作用しているのかも知れない。だいたいお寺の横には大抵墓場があり、肝試しの格好の場所となることは改めて言うまでもないだろう。何より、ヘヴィメタルのプロモーションヴィデオで、教会で悪魔に襲われる映像を見たことが大きいだろう。例えば、Black Sabbathというバンドの曲 「Trashed」のプロモーションヴィデオが挙げられる。歌詞の内容自体は、酔っ払って車でぶっ飛ばす、といったものだが、この中でゾンビに追われた男が教会に逃げ込み、神の像に向かって救いを求めるというシーンが出てくる。ところがこの神は、突如化け物に変化し男に襲いかかってくるのである。当時私が知っている教会とは、比較的新しい日本の街中にある建物で、欧米の映像に出てくる重厚な石造りの教会なんてものは映像の中でしか知ることはなかった。また、『エクソシスト』などのホラー映画の中では、神父と悪魔が戦うシーンがあり、私の中では教会と悪魔の結びつきは自然なことであったのである。しかし、実際にフランスで教会に訪れてみると、そこは悪魔からは最も程遠い場所であった。なぜなら教会は神が統べる空間であり、もし悪魔が出現しようものならあっという間に神様が退治してくれるはずだからである。

悪魔、あるいは悪とは何か?

そもそもキリスト教徒にとって悪魔、あるいは悪とはなんだろう? また、我々日本人は悪魔をどう捉えているのだろうか?
実を言うと、多くの日本人にとって西洋の悪魔というのは理解しにくものなのかもしれないと思う。例えば、映画『リング』(1998年、中田秀夫監督)について考えてみよう。この作品は、念じるだけで人を殺せるという特殊な能力を持ったが故に疎まれ、挙句の果てに実の父親に殺された貞子という女性の怨念がこの世に残り、ヴィデオテープを通して人々を呪い殺していくというホラー映画だ。この作品を忠実にリメイクしたアメリカ映画に『ザ・リング』(2002年、ゴア・ヴァービンスキー監督)がある。このアメリカ版、登場人物にアメリカの俳優を使い、舞台がシアトルに変わっただけで、話の筋や展開などほぼ忠実に日本版の映画をなぞっている。その中で、決定的な違いがあるとすれば、それは悪役である貞子とアメリカ版でその役回りを与えられているサマラ・モーガンとの違いだろう。
恐怖の存在として描かれつつも、日本版の貞子には周りの人々に差別的な扱いを受けたことによって恨みを募らせ怨霊となってしまったことに対する哀れみの情が表現されている。それに対してアメリカ版のサムラにはそれがない。親の愛情に飢えていることを訴え周りの気を引こうとする素振りは見せるものの、基本的には人間に害悪をなすことのみを考えて行動する純粋な悪の象徴として描かれているのだ。ここで言う悪の象徴とは、もちろん悪魔ということになる。
貞子の場合、もし彼女の母親共々良き理解者に囲まれて、愛情を十分に受けて育っていたとしたら、たとえ異常能力を持っていたとしても、平穏な人生を送れたかもしれない。ところが、サムラの目的は最初から最後まで人間社会に不幸をもたらすことである以上、彼女はどのような育てられ方をしても結末は同じものだったと考えられる。死して後も人を呪い殺し続けることが、悪魔としての彼女の宿命なのだ。やはりホラー映画のキャラクターで言えば『オーメン』(1976年、リチャード・ドナー監督)のダミアンが近い存在だろう。
もちろん、ただの娯楽作品にそこまでの意味はないよ、という人がいるかも知れない。しかし娯楽作品だからこそ、この違いに意味があるのはないだろうか? 既に述べたようにアメリカ版は原作の日本版を忠実になぞっている。その上で、観客の恐怖を煽るような映像効果に着目し、リメイクするにあたってその効果を最大限に活かすことを目指している。その過程で彼らは、悪役を無意識のうちに自分たちの悪魔に重ね合わせて描いてしまったのかもしれないし、あるいはキリスト教文化圏の観客にアピールしようと彼らにとって馴染みの深い悪魔を敢えて提示したのかも知れない。いずれにせよ、興行的成功を目的とした娯楽作品だからこそ、意識的であれ無意識のうちであれ、そこにキリスト教的な悪魔が反映してしまったと考えるべきだろう。

西洋の悪魔、日本の妖怪

キリスト教文化圏で悪魔といえば、神に逆らう存在であり、神が絶対的な善なる存在である以上、悪魔は絶対な悪を形成する。どういう理由で悪なのか、ではなく、最初から悪と決まっているのだ。
対して、日本の場合はどうだろう。例えば、水木しげる氏が描いた妖怪の世界について考えてみる。私も子供の頃、妖怪たちの怪しげで恐ろしい世界に興味を惹かれた。確かに妖怪は人間に害を成すこともある怖い存在でもある。しかし、水木氏が描く妖怪は必ずしも悪い存在ではない。それどころか、悪い妖怪と戦う主人公の鬼太郎の味方をする妖怪もいるのである。(なお、鬼太郎自身は妖怪ではなく、幽霊族。)しかも鬼太郎は決して妖怪を絶滅させようとしているのではない。妖怪と人間が平和に共存できる世界を願っているのである。さらに、妖怪たちの中には人間の開発によって住む場所を奪われ怒って攻撃してくるものも少なくない。その場合、鬼太郎は妖怪たちにも理解を示す。妖怪が百パーセントの悪として描かれているわけではないのだ。
このような設定はウルトラセブンなどにも見られる。つまり、人間を攻撃してくる怪獣や宇宙人が単純な侵略者ではなく、彼らなりの事情があるといったストーリーである。フランスでは、日本のアニメやヒーローものの番組で、正義の味方が悪役をやっつけて終わるという勧善懲悪のストーリーが暴力的だと厳しい非難にさらされることが多いのだが、実は、西洋の悪魔と違い、日本の悪役は絶対的な悪の象徴ではない。
また、日本の作品では、純粋な悪にはなりきれない中途半端なキャラクターが独特な魅力を放つことも少なくない。例えば、『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくるねずみ男が挙げられる。この半妖怪はしばしば友達の鬼太郎を裏切って敵の妖怪の手下になることもあるが、その妖怪が鬼太郎にやっつけられると今度は鬼太郎にゴマをすり、結局は許してもらって友達付き合いを続けるのである。あるいはやなせたかし氏の『アンパマン』の敵役のバイキンマンも良い例だろう。アンパンマンに懲らしめられながらも決して抹殺されることはないのである。
対して、キリスト教、特にプロテスタントの悪魔は絶対の悪である。
では、そのキリスト教にとっての悪とはなんなのだろうか?     (続く)

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)