ブラックミュージック徒然 第1回 ジャズ中心主義への違和感田上孝一

博士号を取得し、大学で教えたりもしている研究者ではあるが、音楽は専門ではない。哲学を専攻しているとはいえ、美学の研究者というわけでもない。というわけで、音楽について専門的な議論をする資格はないし、意欲もない。
音楽に関して言うと、ブラックミュージックが好きで、長いこと聞き続けている。最初に聞いていたのはジャズで、中学の頃からよく分かりもしないで聞き始めた。モダンジャズ以上にオールドジャズが好きだったところに、今につながる音楽の嗜好があったようだ。つまりジャズの中にある黒人的な要素に強く惹かれていたのだと思う。
ジャズ以外のブラックミュージックを聴き始めたのは大学に入ってからで、ジェームズ・カーのようなサザン・ソウルに強く惹かれた。何か「これだ」という感覚があった。その後も音楽の趣味は拡散し、ブラックミュージック以外も好んで聞くようになったが、今でも一番好きなジャンルはサザン・ソウルであり、ジェームズ・カーは勿論、O・V・ライトやサム・クックのサウンドを最も愛好している。
音楽ファンは誰しもそうしただろうが、私も何か楽器をやってみようと幾つかいじってみて、これは自分には向いていない、マスターするのは無理だと痛感した。文字で書かれたことならば難解とされる哲学理論でも大抵は頭に入っていくが、音符を直ちに音に転換していくという作業は、自分には到底てきないのだと思い知った。勿論天才的な音楽の勘がある人は音符を読めなくても楽器をマスターすることができるし、実際エロール・ガーナーのような、おおよそ音符が読めなければ無理なはずのピアノで、超一流の域に達した人もいる。だが、自分がそのような天才でないことは、はじめから分かっていたし、楽器をいじれば改めて自分に才がないことを確認させられる。以来、音楽は専ら聞くだけ、しかもあくまで趣味で聞くだけにしていたのである。
それが今回、軽いエッセーとはいえ、こうして駄文を物すことになったのは、酒席で時たま語る私の音楽談義が面白く、活字にしたほうがいいという声を複数聞いたからである。話している本人としてはあくまで漫談のレベルであって、活字化して世に問うというほどのものではないと思っていたが、例えばソウルミュージックがどのような音楽であるのかというような私の説明が分かり易くてよいというような評があったりした。それで今回も、音楽について何か書くように要請されたという次第である。
とはいえ私は上述のように音楽の専門家ではなく、ブラックミュージック研究者でもないため、当該テーマに関して緻密でシステマチックな議論を展開することはできない。できるのはそれとは逆のこと、取り留めのない思いや感慨を綴ることでしかない。英語圏では普通の論文をエッセーと称する場合も多いが、私が書くのは徒然草的な、通常の日本語的な意味でのエッセーである。これからどう続くのか分からないし、続けられるかどうか自体もおぼつかないが、音楽に関する徒然たる思いを、記してみることにしたい。

以前ある研究会で、面白い話を聞いた。20世紀のポピュラーミュージックの中でブラックミュージックをどう位置付けるのかというテーマであった。発表者は大学に所属しない、いわゆる在野の研究者である。しかしこの人は私と異なり、単なる趣味として音楽を愛好しているのではなく、文化研究の対象として取り組み、また美学的な探求も行なっているようであった。それにこれまた私とは異なり、自身でも楽器を奏で、演奏家としての視点からもブラックミュージックを論じようという研究姿勢だと見受けられた。つまり本格的かつ真剣に音楽に取り組み、研究しているのである。
このような発表者だから、ブラックミュージックを知らない聴衆を想定して、自身が重要だと考える幾つかの演奏を実際に再生させて、聞き手にブラックミュージックに対する適切なイメージを持って貰えるよう努めていた。その姿勢は真摯だし、発表内容も興味深くはあった。だがしかし、その発表の基本的なスタンスそれ自体が一愛好家として長らくブラックミュージックに親しんできた私に、強い違和感を与えたのだった。
ジャズ中心なのである。ブラックミュージック史を講じているはずが、その中身は当たり前のようにジャズであり、ジャズを当然のようにブラックミュージックの代表にしているのである。
確かにジャズはある意味ではブラックミュージックを代表する音楽ジャンルである。しかし別の意味では決してブラックミュージックを代表してはいない、どういうことか。
音楽を専ら芸術として、「鑑賞」するものとして捉えるならば、確かにジャズはブラックミュージックを代表する音楽芸術である。特にモダンジャズは、代表的な演奏家が発揮する超絶技巧や、高度な音楽理論の展開によって、一つの芸術ジャンルとして、現代音楽の中に確固とした地位を有しているといえる。このようなジャズが聞き手に与える目的は、真剣に耳を傾けてそのサウンドの真髄を掴むことである。コンサートホールやステレオの前に着席し、静かに拝聴することが求められる。そういう音楽なのである。いわばジャズの聞き手にはクラシック音楽の聞き手と同じような鑑賞態度が求められるのであり、この点でもジャズはクラシックに匹敵する音楽芸術ともいえるわけだ。
静かに座って演奏に耳を傾けるというのは、クラシックファンからすれば当たり前に見えるだろうが、広く音楽一般からするとむしろ特殊な部類に入るのではないか。音楽は静聴以外の様々な聞き方がなされている。静聴が正しくて、「ながら」が間違いというわけではない。特にポピュラーミュージックの多くは、静聴されるのではなくて何かをしながら聞かれるのが一般的だろう。何をしながら聞くのか。それはメロディアスでリズミカルな音楽に対する自然な身体的な反応である、音楽に合わせてメロディーを口ずさんだり、リズムに合わせて体を動かすような聞き方であり、興が高まればダンスをするというのが、ポピュラーミュージックに対する聴衆の一般的態度ではないか。
ブラックミュージックもまた、一般にはポピュラーミュージックの一つとして、基本的に体を動かし、そして他の音楽ジャンル以上に、ダンスをするために聞かれるのである。
つまり大多数のブラックミュージックリスナーにとっては目的が異なるのである。高度な音楽表現を芸術作品として鑑賞するのではなく、スウィングするリズムに身を委ね、楽しいひと時を過ごすための「娯楽」として聞かれるのである。ゴスペルにしても、決して静かに座って聴くものではない。スウィングするリズムに乗って、体をロック(=揺さぶる)させ、魂を揺さぶる宗教的恍惚を得るための手段として、聞かれるのである。そもそもブラックミュージックの原型であるカントリー・ブルースが、ダンスと不可分に結び付いていた。戦後のブルースリバイバル期にヨーロッパのファンがそうしたように、ブルースはコンサートホールで静かに鑑賞するような音楽とは考えられてなかったのである。そしてジャズもまた、他のブラックミュージック同様に、オールドスタイルにあっては、ダンスと分かち難く結び付いていたのである。
いわゆる「スウィング・ジャズ」というのは、その名の通り、リズムに合わせてダンスをすることを前提とした音楽であった。ただしスウィング・ジャズは、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーといった代表的奏者が白人であることに象徴的に示されるように、主として白人リスナーを想定した音楽だった。これに対して同じ時期に、専ら黒人大衆に向けて黒人奏者が演奏していたのは「ジャンプ・ブルース」という音楽ジャンルだった。これも広義ではジャズということもできるが、スウィング・ジャズ以上にポピュラー音楽としての色彩が強い音楽であり、楽器によるアドリブ・ソロよりもむしろ、歌唱を全面に出していた。このジャンプ・ブルースが、後に「リズム・アンド・ブルース」になり、このリズム・アンド・ブルースから一方でロックンロールが、他方でソウルミュージックが生まれることになるのである。
この意味で、ジャズの歴史というのはまさに自らを純化してゆく、高度な音楽理論に支えられつつ、華麗なアドリブを披露する音楽芸術としての「ジャズ」に脱皮して行った歴史といえるだろう。これがビバップからハード・バップを経てフリーに至る、ジャズのメインストリームである。しかしこれはまた、ジャズの音楽としてのポピュラリティ喪失の歴史でもある。ジャズはもはや、多数の人々が聞く音楽ではなくなってしまった。ファンの一部、アドリブを楽しめるような耳の肥えた一握りのための音楽になったのである。ジャズのモダンジャズ以降の展開は、大衆が酒場で踊りながら楽しむポピュラーな音楽ではなくなった。ビパップではまだ踊ることもできようが、フリージャズでは無理である。例えばアルバート・アイラー。その代表曲である「ゴースト」は実に素晴らしい音楽だが、もはやダンスとは何の関係もない。これがジャズなのである。

こうして件の発表者に対して私が抱いた違和感の理由が明らかになったと思う。もし発表の主旨が、芸術表現としてのブラックミュージックについてというようなものなら、ジャズを中心に語ることには何の異論もない。しかし「ポピュラー」なものとしてのブラックミュージックを語るならば、多数の聴衆、特に黒人大衆が愛好してきた、まさにポピュラリティのある音楽ジャンルが選ばれてしかるべきである。その場合はモダンジャズではなくて、リズム・アンド・ブルースからソウルやブラック・コンテンポラリーへの流れが中心になるべきだと、私には思われる。そしてポピュラーミュージックとしてのブラックミュージックは常にダンスと結び付き、その時々に流行したステップと共に楽しまれてきたのだから、ダンスとブラックミュージックの密接不可分な関係という論点が、大いに強調されなければならなかったのである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)