バター抜きは「ドライ」 第3回:オートマチックで玉ねぎでバックドロップで葛生賢治

みなさん「銀河ヒッチハイクガイド」というイギリスの小説をご存知だろうか。著者はダグラス・アダムス。銀河を舞台にしたSFドタバタコメディで、数年前には映画化もされた。

こんなストーリー。

さえないイギリス人青年のアーサー・デントは、ある朝ブルドーザーの轟音で目をさます。家の庭に来ていたブルドーザーは、その地域にバイパスを通すため今まさにアーサーの家を取り壊そうとしていた。そんなこと知らされていないと怒ってみても、作業員は「通達を知らないそっちが悪い」と取り合わない。押し問答をしているそこへ、アーサーの友人フォード・プリーフェクトがやってくる。彼に助けを求めると、フォードは言う。いまそんなことにかまっている場合ではない、と。すると上空には無数のUFOが。ヴォゴン人という宇宙人の乗ったUFOは、今からこの地球という星を銀河バイパスを通すために取り壊す、とアナウンスをする。地球各国の政府があらゆる通信手段を駆使してそんなこと聞いていないと返答したが、「通達を知らないそっちが悪い」と取り合ってくれない。そしてあっけなく地球は宇宙人によって破壊されてしまう。破壊される一瞬前、フォードはアーサーを連れて、ヴォゴン人の乗ってきたUFOに忍び込むことに成功する。フォードこそ、宇宙の様々な惑星を旅するためのガイドブック「銀河ヒッチハイクガイド」の編集者で、地球人になりすまし取材をしていた特派員だった。それからアーサー、フォード、その他数名の宇宙人たちと、銀河を舞台に奇想天外なヒッチハイク旅行が始まる。

と、これだけ聞くと単なるSFギャグマンガみたいだけれど、この小説、とても哲学的なモチーフが多く盛り込まれている。「ディープ・ソート(Deep Thought)」という超高性能なコンピュータが登場し、その開発者に「生命と宇宙と万物の答え」を求めさせられる。超ウルトラ高性能なそのコンピュータは、数千億年かけてその答えをはじき出す(ネタバレになるので詳細は省きます)。でもその答えでは不十分で、「究極の答え」に対応した「究極の問い」が必要となる。その「問い」はディープ・ソートにも分からないが、ディープ・ソートがこれから開発するさらに高性能なコンピュータによって解明可能になるという。その究極の問いをはじき出すコンピュータこそ、地球だった。地球はその誕生以来、天文学的な時間をかけて「問い」を計算しているコンピュータだった。が、物語の冒頭、銀河バイパスを作るためにあっけなく破壊されてしまう。かくして「究極の問い」を解明する鍵は永遠に失われてしまった。たったひとつの残骸を残して。そう、アーサー・デントこそ、地球というコンピュータの最後の部品として、この世に残された唯一の「問い」をにぎる存在なのだ。彼の脳波を見ると、その「問い」が最終的に明らかになる。

僕が最初にこの小説を読んだのは中学2年生の時。もともとSF小説は大好きで小松左京や豊田有恒などよく読んでいたけれど、この作品の荒唐無稽さ、哲学的な面白さ、そして独特のユーモア感覚に僕は虜になった。以来、何度となく読み返し、28歳でボストンカレッジ哲学科に合格して渡米する際にも、お守りのように持って行ったのを覚えている。

思うに、僕にとっての「初めての哲学体験」というのはこの小説ではなかっただろうか。中2の僕は「哲学」なんて言葉すら知らなかったけれど、何か「世界の究極」に思いをはせることの面白さを味わったような気がした。

と同時にこの体験は、僕の中で常にある種の恥ずかしさと結びついていた。実際に僕が「哲学」をその言葉も含めてちゃんと意識したのはそれから2年後の高校1年生の時で、ハイデガーの哲学に触れ、「存在とは何か?」という問いに出会った時だった。ハイデガー特有のとても難解な議論を、分からないなりにも味わうことで「哲学」というもののエッセンスに触れた気がした僕には、「銀河ヒッチハイクガイド」はどこか子供の頃に遊んだおもちゃのように見えてしまった。ノスタルジーこそ感じても、それを正式な「哲学書」と捉えることに未熟さを感じるような。エッジの効いたお笑い芸人としてM-1グランプリ優勝を目指す若手芸人が萩本欽一さんの弟子になろうとはしないような。吉本の笑いは認めても松竹は認めないような。

そして大学生ともなると、時代は「ニュー・アカデミズム」という難解モノを読むブーム。まわりの学生たちは浅田彰や蓮實重彦、フーコーやデリダやゴダールといった鋭利な刃物のようなモノ、要するに「エッジが効いてかっこいい思想」を語っていた。僕もそれに合わせるようにいろいろ読んで吸収した。もちろん、そこから学んだことは大きいし、現在の僕の考え方の核はその頃に養われたところも多いけれど、同時に僕の中では「銀河ヒッチハイクガイド」が常にどこかに引っかかっていた。それでいて、その作品は僕の核のちょっとだけ横に、5センチほどずらした場所に置いてあり、どこか恥ずかしいもののように感じられていた。運動会の日にみんなでお弁当を食べたら、他の子たちがみんな豪華なおかず盛りだくさんでデザートにタッパー入りの季節のフルーツまで付いていたのに対して、自分のお弁当には玉子焼きと梅干しだけ、みたいな。バナナすら付いてなかった、みたいな。

その恥ずかしさが間違いだと分かることになる。

ボストンカレッジを2年で卒業し、30歳でニューヨークに引っ越した僕はニュースクールで博士号を目指し勉強することになる。そこで受けた講義の中でもとりわけ印象に残っているのがイギリス人のサイモン・クリチリー教授による、ハイデガーの歴史的名著「存在と時間」を丸々一冊精読する講義。クリチリー教授といえば、まさにフーコーでデリダでゴダールで、そっち系の最前線で戦っている騎士。そのフロントランナーによるハイデガーの講義。僕は自分の原点になるもの、スタート地点がいよいよ現役バリバリのプロに解説されるという期待で、嬉々として講義に通った。講義は本当に素晴らしかった。本当に本当に素晴らしかった。そういうことだったのか、と膝をポーンと打つことの連続(実際には打たなかったけれど)。打ちすぎて脊髄反射で前の席の学生を蹴り上げたり(うそ)。そんな中、教授がこんなことを言った。

「この問題はね、『銀河ヒッチハイクガイド』にこれこれこういうのあったでしょ、あのヴォゴン人が地球に来て、、、。」

おおおおお!銀河ヒッチハイク!ヴォゴン人!マジでか!?

まさかこんなところでこの名前を聞くとは。我が耳を疑った。その後の説明の中で、ヒッチハイクガイドの中の問題がかなり高度な、そして本質的な哲学的問いを扱っていることが理解できた。理解できたというよりも、僕がもともとそうだと思っていたことが教授によって承認されたような気がした。80年代に少年マガジンで連載されていた小林まことのマンガに「1・2の三四郎」というのがある。幼い頃からプロレスが大好きだった主人公の三四郎は、青春を柔道に捧げて完全燃焼した後、プロのレスラーとしてデビューする。三四郎が子供の頃から得意で友達にかけていたプロレス技はバックドロップだった。プロになって試合で初めてバックドロップを決めた瞬間、試合を見ていた三四郎の幼馴染でライバルの馬之助と虎吉が叫ぶ。「プロでも通用した!」と。

そんな気分だった。いやー、正解だったんだ。銀河ヒッチハイクガイド。ありがとうクリチリー教授。

アメリカにまで渡って哲学をゼロから勉強して理解したことは多々あれど、理解する「前の段階」で根本的に考えを改めたことがある。「哲学」と「それ以外」の関係というか、社会の中での哲学の位置づけというか、「八百屋のおっさんが玉ねぎ売ってるこの世界の中で、おっさんの玉ねぎと哲学はどう向き合うべきなのよ?」ということ。ソフトボール大会があったとして、試合でどうプレーするかより以前のこと。競技場へ行くには○○駅で降りてこの道を行って正面右の階段をのぼって、とか、試合はこの日の何時から行われます、とか、この競技場は演歌歌手の鳥羽一郎さんからの寄付金で何年に作られました、鳥羽一郎さんは山川豊さんのお兄さんです、といったことまで。試合を取り囲むもっと広い文脈が、日本と欧米とでは違っていた。もちろん、日本の大学で教えられている「試合の内容」は正統なものだし、僕も日本の大学で基礎を学んだつもりである。欧米で紹介される日本の哲学者もいる。僕はなにも、日本で研鑽されている哲学が「亜流だ」なんてディスってるわけでは無いので、誤解なきように。

でも、試合内容が正統だからといって競技場の外と中とがかけ離れていたら、結局のところ試合の意味も微妙におかしなことにならないか。おっさんの玉ねぎはソフトボールの試合に無関係、玉ねぎなんて恥ずかしい、それどころか試合中は玉ねぎなんて存在しない、とするなら、存在しないと思ってる社会の中で行うソフトボールの試合の意味とは?その試合に勝つ意味とは?

90年代に彗星のごとく現われ日本のR&Bミュージック界を次の段階へ押し上げたとされる宇多田ヒカルは後に全米デビューしたそうだけど、アメリカ人で彼女を知る人がどれだけいるか。さらには彼女を「本物のR&Bシンガー」と認めるアメリカ人がどれだけいるか。「本物のR&Bシンガー」って言ったらダイアナ・ロスと同じ土俵なわけで、宇多田はダイアナ・ロスとがっぷりよつなのか。いや、僕は認めてるけどね。宇多田。イッツオートマーリッ。

くれぐれも誤解の無いようにお願いしたいのは、「日本がダメで、欧米がすごい」という「優劣」の問題ではない、ということ。前回のカツカレーの話にもつながるけど、日本でそれほど評価されていないことが日本以外で高評価を受けている例も多々あって、その逆のことだってたくさんある。要するに、全てはコンテクスト。文化的状況が多大に影響して、「僕らの現実」を作り上げているのである。

と断った上でそれでも、僕がニュースクールで味わったこと、銀河ヒッチハイクガイドの名前を聞いたことに何かしらの価値があるとしたらやはりそれは、日本の「文化的な常識」にはフィルターがかかっているのが分かった、ということだろう。ニューヨークで学んでみると、哲学は驚くほど「象牙の塔」で行われていないし、「フーコーや蓮實こそ4番打者だ」「宇多田こそ真のR&Bだ」「玉ねぎは存在しない」なんてことも無い。すべてはオリンピックのごとく、強い者だけがメダルを手にする。どんな手を使ってでも、玉ねぎでボールを打っても、それがホームランだったら優勝。それだけ。実力主義の競争ルールが、もちろんある程度の障害物に邪魔されつつも、歴然と保たれている。そしてその競争は本物のオリンピック並みに熾烈だ。

「銀河ヒッチハイクガイド」の導入部にはこうある。究極の答えは究極の問いと同時にあって初めて意味をなすが、もしもそんなことが起きたら世界はとんでもなくややこしくて困った場所になってしまうだろう。そして、それは既に起きてしまっているとも言える。

日本で通用しているピクチャーのほとんどが、フィルターのかかったピクチャーだとしたらどうだろう。世界は既にもう「起きてしまった世界」で、驚くほど奇想天外なものだとしたら。子供のころ遊んだおもちゃだと思っていたものが実は金の延べ棒だったり、「エッジの効いたもの」が赤面するほどかっこ悪かったり、4番打者のスーパースターが覚せい剤中毒者になったり、何だってあるのだ。すべてオートマチックに行くなんてことは無いのである。

あ、でも僕は宇多田ヒカル好きですからね。いや、ほんと。イッツオートマーリッ。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。