ロックと悪魔 第3回 ペルシア、インド、メソポタミア地方の神と悪魔黒木朋興

前回は旧約聖書まで遡って、主にサタンが、どのようにして神に戦いを挑む悪魔、という存在になっていったかについて述べた。今回は、「悪魔」と訳される英語「 devil」、フランス語「diable」あるいは英語「demon」、フランス語「démon」といった言葉を語限まで遡り、その意味について考えてみたい。

語源から見る神と悪魔

<表1>

DEI (印欧語根 「輝く」)
サンスクリット語(インド) deva 神(天)
アヴェスター語(ペルシア) daēva 悪神
ギリシア語 zeus 神
ラテン語 deus 神
フランス語 dieu 神(キリスト教)
déité 神(異教)
déesse 女神(異教)
démon(← ギリシア語 daimōn ラテン語 daemon) 悪魔
diable( ← ラテン語 diabolus)悪魔
英語 devil /demon 悪魔

上記の表にあるように、この語のインド=ヨーロッパ語族における語根は「dei」であり、「輝く」という意味であった。なお、これは英語の「day=日」という語と同じ語源だということを言い添えておく。

だが、ここでの問題はこの語が「悪魔」という語の語源であることは言うまでもない。いきなり英語を見れば「devil デビル」や「demon デーモン」といった言葉が目につくので、この「dei」が「悪魔」の語源であることばかりが浮き彫りになってしまうかも知れない。しかし、他の言語を見てみると、「悪魔」だけではなく「神」の語源となっていることが分かるだろう。サンスクリット語の「deva デーヴァ」を始め、ギリシア語の「zeus」やラテン語の「deus」のことである。さらにそのラテン語からフランス語の「dieu」が出来上がったことも容易に想像出来る。つまり、ここで重要なのは「dei」という言葉が、「神」と「悪魔」の両方の語源になっているという事実である。あるいは、人知を超える何らかの力を持った存在の一方の面が「神」でありもう一方の面が「悪魔」だとも言える。ここで注目すべきはアヴェスター語の「daēva ダエーワ」だろう。神は神でも明確に「悪い神」を指しているのである。

この神の多様性はフランス語を見てみるとはっきりとする。「dieu」は神一般だが、「Dieu」というように頭文字を大文字にすることによって特にキリスト教の<神>を指すことになる。「déité」や「déesse」は同じ言葉から派生しつつも、原則的にギリシア、ローマ、ゲルマンやケルトなど異教の神々を指す。特に女神に関しては、キリスト教の「父と子と聖霊」の三位一体とされる神はすべて男性神であることを考えれば、「déesse」は必然的に異教の神ということになる。なお、ギリシア語は頭文字を大文字にし「Zeus ゼウス」とすることによってギリシア神話の天神ゼウスを指すようになる。対して、悪魔を意味する「démon(英:demon)」や「diable(英:devil)」も「dei」を語源に持つことを考えれば、神と悪魔の近似性をうかがい知ることが出来るだろう。

また、フランス語や英語の「démon/demon」は確かに悪魔だが、ギリシア語 の「daimōn ダイモーン」に関して言えば、この語が指すのは決して「悪魔」ではなく、守護霊のように人間に憑いている神的な存在であり、邪悪なものもいれば善行を施すものいるのだ。というように「dei」を語源として持つ語は、基本的に人知を超えた存在を指しており、それらは時には人間に害悪をもたらしたり、またある時は人間を救ったりする。神的な存在の多面的な特徴が分かるだろう。

古代インド・イランの神話世界

次に古代インドとイランの神々を見てみよう。

<表2>

インド
deva(インドラ – 帝釈天など) asuras(ヴァルナ – 水天など)
→ 阿修羅
ペルシア
アフラ・マズダー Ahura Mazdā =善 アンラ・マンユ Angra Mainyu = 悪
(アフリマン Ahriman, 中世ペルシア語形、アーリマン)
→ 配下の悪魔集団がダエーワ daēva

古代インドのバラモン教の神々は「デーヴァ deva」と「アスラ asuras」という2種類に分けられる。デーヴァを代表する神としてインドラがいる。日本でいう帝釈天である。東京で帝釈天が祀られているお寺が柴又帝釈天で知られている経栄山題経寺だ。対して、アスラを代表するのがヴァルナであり、日本では水天と呼ばれている。デーヴァは物理的な力で敵を圧倒する。例えば暴風雨神であるルドラ神群を率いて現れ、ヴァジュラ(金剛杵)と呼ばれる武器で雷を落とし敵を攻撃したり人間い罰を与えたりするのだ。対して、アスラは不可思議力を行使する。洪水を引き起こしたり、疫病を流行らしたりする。デーヴァとアスラは単に性質が違うだけであり、どちらも神であることに変わりはない。しかし、この「アスラ asuras」という語は、やがて帝釈天に戦いを挑み敗れたことによって天から追われることになる阿修羅の語源であることを指摘しておきたい。つまり、阿修羅は天を治める神である帝釈天に敵対する神であり、どちらかというと悪神に列せられる存在と言える。

次に、ペルシア、つまり現在のイランに相当する地域の神々を見てみよう。イランは現在でこそイスラーム教の国ではあるが、元々の文化のレベルにおいては多くの共通点を持つ。その昔、インド=ヨーロッパ語族の言葉を話すアーリア民族の集団が、東ヨーロッパ方面から進入し、イランからインドの地へと定住したのである。イランは現在でこそイスラーム教化してはいるが、それ以前のゾロアスター教はインドのバラモンと同根のものだし、文字もアラビア文字を使用してはいるが、言語はセム系のアラビア語ではなくインドの言葉と同系統なのだ。

さて、ゾロアスター教とはキリスト教世界で古代神学、つまりキリスト以前に「真理」に開眼しキリスト教の誕生を準備した教えの一つとして知られており、拝火教であると同時に、厳格な善悪二元論の立場を取ることで有名である。善神は「アフラ・マズダー Ahura Mazdā」で、悪神は「アンラ・マンユ Angra Mainyu」である。問題は、アフラ・マズダーの「アフラ Ahura」が、語源として「アスラ asuras」と同じ言葉から発していることだ。インド神話ではアスラはデーヴァに対してどちらかと言えば、邪悪な要素を持った神とみなされていたことを思い出しておきたい。インドでは最高神に抗う阿修羅に対応するのが、ペルシアでは最高神アフラ・マズダーだと言えるのだ。対して、悪神のアンラ・マンユ自身ではなく、その配下の悪魔集団の「ダエーワ daēva」が「デーヴァ deva」と同じ語源である。つまりインドでは善の立場につく神が、ペルシアでは悪神として扱われていることになる。

以上から、同じ言語と神話を共有していたインドとペルシアでは、その後のそれぞれの歴史の流れにおいて、善神と悪神が逆になってしまった、ということになる。

二元論の流れ メソポタミアからペルシアへ
前回述べたように、一神教の体系であるキリスト教に善神と悪神の二元論的発想がもたらされてのは紀元前6世紀頃のバビロン捕囚がきっかけであったという。

バビロンとはバビロニアの首都であり、バビロニアとは現在のクウェートやイラクの一部を含む土地を国土とした古代の王国である。現在のイランとイラクの関係からも分かるように、当時のペルシアと隣接していた地域である。チグリス川とユーフテラス川を中心とした地域からメソポタミア文明が起こったことは世界史の教科書でも有名であろう。

メソポタミア文明と言えば、楔形文字を使用していたことで知られている。粘土板にヘラ状の筆で線を刻み付けることで記述する文字である。また、古代エジプトの10進法に対し12進法を用い、数学が発展していたことでも有名である。長い間数学の世界では比率計算がメインであった。となれば、10進法では10÷3や10÷6が割り切れないが、12進法では12÷3=4だし12÷6=2となり割り切れるので計算に便利でありこの地で数学が発展したことも納得出来るだろう。現在の我々の生活で言えば、時間の単位が12進法であることを思い起こしておきたい。1/3時間が20分、1/6時間が10分で、それぞれ割り切れることを考えると、時の数え方が10進法であれば少々面倒くさいことになってしまうことが容易に想像できる。

このバビロニアの神話にも善悪二元論的発想が見られる。英雄ギルガメッシュと怪物フワワ、ニヌルタと怪物アンズー、それから善神マルドゥクと悪神ティアマト(女神)の対立などであり、神話では前者が後者を退治する神話が現存する。そもそもメソポタミアの神話世界はインドやペルシアと同じく多神教なので、その中で悪役の怪物が出てくるのも自然だし、当然神はそれらを退治するからこそ崇め奉られると言える。また、神々の中で善神と悪神がいるのも当然だろう。また、同じ起源を持つインド神話とペルシア神話で、歴史の流れの中で善神と悪神がひっくり返ってしまったことを考えれば、絶対的な善の神が統べるキリスト教と違い、多神教世界では善と悪が表裏一体の存在であることが分かる。

このように、バビロン捕囚を契機にこのようなメソポタミアの文化が聖書の世界に流入した。彼らの文化は12進法など実用的なものから二元論的世界観など我々の現在の生活にも大きな影響を及ぼしている。また、パズスなどメソポタミア神話の悪魔がやはりキリスト教の中に入り込んだことも、我々にとっては極めて重要な逸話であるだろう。パズスとは、悪魔に取り憑かれた女の子を救うべく、カトリックのエクソシスト(=悪魔を祓う聖職者)が悪魔と壮絶な戦いを繰り広げるアメリカのホラー映画『エクソシスト』(1973) で登場する悪魔であることを言い添えておく。

そしてペルシアのゾロアスター教からの影響によって善と悪からなる二元論的世界観のがキリスト教世界にもたらされ、それは「ヨハネの黙示録」の成立に決定的な影響をもたらすことになる。元来、キリスト教の神は唯一神にして、この世界の創造主であり、天使をはじめ人間やこの地上に生きるすべての生物は神の被造物である。そして悪魔も神が創造した天使の一部なので、彼らがどんなに頑張ったところで生みの親である神に敵うべくもない。というわけで、善の勢力と悪の軍団が衝突しギリギリの戦いを繰り広げるということは、創造主である神を中心とした世界観ではあり得ない。悪魔は神を目前にしては到底まともに太刀打ちできる存在ではないのだ。対して、多神教世界の悪の勢力は強大である。下手をすれば善神をを打ち砕くことのできる能力を持ち合わせているからこそ、それを見事に退治して世界に善をもたらした神々が人々の信仰を集めるのである。そのように考えていけば、神と悪魔が最終戦争を繰り広げる「ヨハネの黙示録」に、メソポタミア神話やペルシア神話が与えた影響をより理解できるだろう。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)