ロックと悪魔 第4回 初期キリスト教とヘレニズム思想黒木朋興

前回述べたように、古代メソポタミア神話やゾロアスター教は「ヨハネの黙示録」に影響を与え、二元論の刻印を聖書に残すことになった。さらに、その後においても二元論は様々な形でキリスト教思想に影響を及ぼし続けることになる。そこにキリスト教における悪魔に対する考え方の重要な核があると言って良いだろう。

聖書とギリシア語
それまで一民族のための宗教に過ぎなかったキリスト教は、イエスの死後、周囲の文化から影響を受けつつ、だんだんと世界宗教へと発展していくことになる。ギリシアを始め前述のメソポタミアやペルシア思想や文化が挙げられるだろう。

まず指摘しておきたいのが、ギリシア哲学からの影響である。そもそも旧約聖書がヘブライ語で書かれていたのに対し、新約聖書は最初ギリシア語で書かれたという事実を確認しておきたい。これにはイエスの死後のキリスト教社会内部での勢力争いが大きく影響している。ヤコブなどイエスの親族を中心としたエルサレムを拠点とするグループとパウロを中心としたギリシアのグループの間の争いである。エルサレムにはイエスが実際に説教をしていた神殿があり、そこでイエスに直接教えを受けた弟子たちや、何よりもイエスの親族がいて、自他ともに認める正統的な立場を保持していた。それに対して、自分たちの権威を何とか高めようとしたギリシアのグループのとった戦術が、伝え聞いたイエスの言葉を集めて本を編むという行為だったのである。なお、聖書=バイブルは英語で「Bible」と書くが、これは「書物/本」を意味するギリシア語の「bibilia」から派生していることを言添えておく。

聖書と言っても、イエス自身が書き残した書物ではない。実は、イエスは字を読めも書けもしなかったという説もある。そのようなイエスが話したことを、弟子たちは語り継ぎ、神の教えを広めていたのである。対して、多くのギリシア人たちはイエスに直接会ったこともなければ、言葉も違った。しかし、彼らにはプラトンやアリストテレスなどの哲学を始め、古代ギリシアの豊穣な文化を受け継いでいたのである。そのような背景のもと彼らは書物を編纂し、それを自分たちの宗教活動の中心に置く。それが『聖書=Bible』であったのだ。

このようなギリシア人の活躍は、キリスト教をユダヤ民族のための宗教の一分派から世界宗教へと脱皮させることになる。もちろん、ユダヤ人ではないサマリア人を愛を実践したという理由で神に救われるに値するとしたイエスの思想には、ユダヤ人のためだけの宗教ではなくより普遍的な要素が含まれてはいた。しかし、ギリシア人のキリスト教徒の出現により、普遍化の道筋は大きく開かれていったと言っても過言ではないだろう。

聖書と古代ギリシア哲学
もちろんユダヤ人以外の信徒の拡大という事実も重要だが、古代ギリシア文化をキリスト教が吸収できたことも決定的な役割を果たした。特に、キリスト教の根本教義である三位一体説の成立にギリシア哲学が影響を及ぼしたことは確実だろう。三位一体説とは、神たる父、子たるイエス、聖霊の3者が一体であるという思想である。ユダヤ教から発するキリスト教が、ユダヤ教や同系統のイスラーム教と大きく異なるのは、神自身がこの世に現れたとする点である。ユダヤ教のモーセやイスラーム教のムハンマドは救世主=キリストでなく預言者である。つまり、彼らはあくまでも神の言葉を聞くことができ、それを人々に伝える役目を担わされた人間に過ぎず、断じて神ではない。ところが、キリスト教においては、イエスは預言者であると同時に神がこの世に遣わした救世主=キリストであり、神なのである。このように神がこの世に人間の肉体を持って現れることを「受肉」という。では、神はどうやって「受肉」したのであろうか?というと、聖霊が天から飛来して聖母マリアの体に入り、神の子イエスとしてマリアの肉体の中で受胎するのである。この場合、神を父として、イエスをその子とするならば、父は子よりも上位の位置にあると考えることも可能だ。しかし、カトリックはこのような考えを異端として排斥し、父と子と聖霊を同列に置いた。すなわち、これらを三者を「=」で繋ぎ、父=子=聖霊としたのである。ここで重要なのが、セム語族であるヘブライ語には「=」の意味の動詞はないが、インド=ヨーロッパ語族のギリシア語にはある、ということだ。つまり三位一体説は、イエスの教えがギリシア語で書かれたことによって生まれた思想であるという見方ができるのである。

「=」の意味を持つ動詞とは、英語では「be」、フランス語では「être」、ドイツ語では「sein」、ラテン語では「esse」がそれに当たる。この動詞には基本的に2つの意味がある。一つは「=」であり、もう一つが「存在する/実存する」である。英語でいえば「=」の方が「essence(本質)」(ラテン語の「esse」から派生している)、「存在する/実存する」の方が「existence(実存)」となる。神学とは「=」を繋いで物事の本質、つまり真理に至ろうという学なのだ。数学で使われる「A=B, B=C ∴ A=C」という公式とは、まさにこのような知の営みの産物であると言える。また、サルトルの有名な「実存は本質に先行する」という台詞とは、哲学は神あるいは真理を追究するより、今ここに我々や物が存在/実存するという事態を探求すべきであるという意味なのだ。これだけをみても、キリスト教に対するギリシア哲学の及ぼした影響の重要性が分かるだろう。

キリスト教とグノーシス主義
キリスト教が、当初、ローマ帝国において迫害されていたのはよく知られている通りである。ところが、コンスタンティヌス帝による313年のミラノ勅令で公認された後、コンスタンティヌス帝自身の改宗を経て、キリスト教はテオドシウスI世によってローマ帝国の国教となる。この時代のローマには、ギリシア思想だけでなく、メソポタミアやペルシアの文化も流入しており、当然これらもキリスト教に影響を与えることになった。そのような思想に、グノーシス主義がある。

このグノーシス主義はいろいろな思想の入り混じっており、今なお明確な定義は難しいが、現在ではだいたい次の2つの意味で流通している。1つ目は、様々な古代思想が組み合わさった広い意味であり、ユダヤ教やキリスト教にその痕跡が認められる。2つ目は、2世紀のキリスト教徒の中のグノーシス主義者が生み出した複雑な思想体系であり、ともすれば正統な教父たちの思想に代わり得る信仰となる可能性を秘めていた思想であった。

例えばマニ教に代表されるグノーシス主義の特徴はと言えば、物質と霊の二元論、あるいは善と悪の二元論である。まさに、古代メソポタミア神話やゾロアスター教などにおいて見られた二元論の思想が、グノーシス主義という形でローマ帝国に流入し、元来は一神教であったキリスト教の内部にも入り込んできた、と言えるだろう。

キリスト教と二元論
では、教父を中心とした正統なキリスト教の立場から見て、グノーシス主義の問題は何だったのであろうか? あるいは、キリスト教の内部に入り込みながらも、最終的に正統の立場に立てなかった理由は何なのだろうか? それは、二元論の立場を受け入れてしまえば、悪を司るもの、つまり悪魔を神から独立した存在として認めてしまうことになるから、という理由による。連載の第二回で述べたように、元々キリスト教の悪魔とは、元々神の被造物である天使であったが、神の怒りに触れ天から落とされた存在であったことを確認しておきたい。天使が神の被造物である以上、その力の差は圧倒的である。ということで、悪魔となった天使が神に逆らったところで、到底太刀打ちできるものではないことになる。人間も、そして天使も、あくまでも創造者である神の支配下にあるとも言える。

それに対して、二元論は悪魔を神から独立した存在として認めてしまうことになる。何故ならば、二元論においては善と悪の力は拮抗しており、この両者がギリギリの戦いを繰り広げるなか、信者たちの必死の祈りのもと善である神が勝利を収めるというストーリーが際立つことになるからだ。この場合、善である神の勢力があっさりと勝ってしまえば、ありがたみが薄れてしまう。目の前の敵が強ければ強いほど勝った時の喜びが大きいのは明らかだろう。この二元論における悪魔は神の支配下にあるのではない。神の力の及ばないところから独自に力を蓄え、準備し、神に対して戦いを挑むのである。神とその信者たちは自分たちのテリトリーの外からやってくる敵、すなわち悪魔の侵略を受ける。そのような手強い相手を打ち破ることによって、人々は救いを与えられることになるだろう。

このように悪魔に神から独立した力を与えてしまうことは、キリスト教にとって受け入れ難いものであることは明らかだ。何故なら、キリスト教の神とはこの世界の創造主にして全能の神だからである。その神に逆らう存在がいたところで、神を目の前にしては瞬時に駆逐されてしまわなければならない。善と悪といった両者の力が拮抗するなど、あってはならないことのなのである。

にも関わらず、「ヨハネの黙示録」を始め、善悪二元論はキリスト教の体系に入り込むことになる。何故か? それはこの世に悪が存在するからである。盗人や殺人者などの犯罪者が全くいない社会など存在しないし、地震や嵐など人間を苦しめる災害もなくならない。人が生きていくためにはこのような悪に打ち勝ち、乗り越えていかなければならないのだ。だとすれば、犯罪者が存在するのは悪魔に唆されたからだし、災害も悪魔からの攻撃だと考えれば納得もできるし、それらの悪を退けるためにも神への忠誠心=信仰が何よりも重要なこととなる。

しかし、これら悪の勢力が力を持ちすぎてしまえば、一神教であるキリスト教の教義を脅かすことになりかねない。とはいうものの、この世の中から悪はなくならない。では、全能であるはずの神は、何故そもそも世界創造の時に悪の存在をこの世に織り込んでしまったのか? この問は、永遠に解かれることなく、以降のキリスト教思想に受け継がれ、キリスト教における悪魔の議論に影響を及ぼし続けることになる。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)