アゴラまでまだ少し 第2回
焼きそばソースの向こう側、あるいはファインダー越しの異邦人葛生賢治

少し前に、親戚の集まりがあって秋田県に行ってきた。

全ての用事を済ませたあと、男鹿半島を観光し、時間があったので秋田県立美術館を訪れた。安藤忠雄の建築による、例の「打ちっ放し」の壁に包まれた近代的でスマートな建物。展示の内容よりも、その美術館の中にあるカフェがとても印象的だった。窓に面したソファー席に座ると、目の前に見える景色がまるで違う世界を映し出していた。

その美術館は掘を挟んで千秋公園に面していて、美術館、堀、千秋公園の森といった具合に、美術館と公園の森が掘をサンドイッチする形になっている。美術館に入るまで外に見えたのは、公園の森とその手前にある堀、そして美術館前にあるちょっとしたスペース。その日は美術館の敷地内のそのスペースで小さなイベントをやっていて、お好み焼きなどの屋台やら地元のタレントが出演する舞台やらが立ち並び、家族連れやらお年寄りがぐちゃぐちゃと押し寄せていた。屋台用電源に使われる発電機のモーター音、舞台上で聞いたことない名前のお笑い芸人がマイクでがなる声、赤ん坊の泣き声。轟音うずまく中に漂うお好み焼きソースの匂い。要するに、いまや日本のどこの街でも見かける週末イベントの光景である。そしてあまりクオリティー・オブ・ライフを追求してるとは思えない、日常の中の日常。

それが美術館の2階にあるカフェに入った瞬間、別の世界になっていた。カフェの窓に向かって椅子に座ると、さっきまでの群衆やら屋台やらは完全に窓のフレームから排除され、向こう側にある公園の森と堀だけが目に入るように設計されている。さらに、カフェの窓の外側にはベランダ状に水を浸したプールのような設備が取り付けられている。目の前に広がるそのプールに静かに流れる水はちょうど向こうの堀の水につながるように見え、それが公園の森へとつながる。森は堀とプールの水に反射し、目に入るのは水と緑の重なりあう映像だけ。カフェにいるこちらはどこか別の世界に入り込んだような、世界から緑と水だけを抽出して再構成した「地球上のどこにも存在しない空間」に瞬間移動したかのような錯覚に囚われる。

こんな感じ。

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そしてカフェの内部はこんな感じ。

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カフェにいる人たちも、「下界」でお好み焼きをほおばりながらローカルタレントのお笑いショー見てどこにでもある週末の時間をやり過ごすのとはちょっと違った、いわゆる「文化的」な雰囲気の方々。(もちろん、そういう人たちが「上」の生活してると言いたいのではない。あくまで違うタイプに見えた、というだけ。)

さっきまでおたふくソースの匂いが立ち込める中でギャン泣きしていた赤ん坊は? 疲れきった顔で週末の家族サービスをするくたびれたおっさんは? さして面白くもないイベントに、家にいてもつまらないからという理由だけで友達とやってきてやっぱりそれほど面白くなかったとわかり微妙な表情で並んでスマホいじってる高校生たちは? 路肩に座って焼きそば食べてるおばちゃんは? モーターの轟音は? すべてが消えていた。

カフェから見えた森はもはやイベント広場前の森ではない。堀はただの堀ではない。窓からの別空間に属する、モダン建築の鋭利な刃物によって切り取られた水と緑のミニマルな異世界に属する森と堀なのだ。安藤忠雄はそういう「異空間に投げ入れられた感覚」を味あわせるためにこのカフェを設計したことがとてもよく理解できた。

そしてそこにはとても面白い哲学的問題が含まれていた。

僕がカフェで体験したのは、現実の一部を違う角度から見たら違うように見えた、ということではない。美術館の外に存在する「くたびれた週末の時間」=「現実」が、カフェの窓から見たらアレンジされて「面白い嘘の光景」として現れた、ということではない。カフェの窓から広がる光景こそが「ちゃんとした時間を過ごしている」感覚、「リアルな」感覚を与えてくれる現実で、さっきまで外にあった猥雑な現実こそ「本来の生に満ちた生活を送らない者が自分に嘘をついてやりすごす時間」、つまり偽りの現実だと感じられる、「リアリティーの逆転」だったのだ。美術館の外にある世界が「満ち足りた時間」から遠ければ遠いほど、カフェから見える世界、カフェで過ごす時間こそが「リアル」として受け止められる。

さらに一歩進んで考えると、その体験はリアリティーの「逆転」だけではない。「別のリアリティーの出現」でもある。近代建築のミニマルな視点で切り取られ、再構築された水と緑の空間体験は、どこにも存在しない空間の体験である。それが美術館外の「現実の森」と同じくらい「現実味」があった、というのではない。逆に、「くたびれた現実」からほど遠い姿として目の前に現れ、現実とまったく違っているからこそ「リアル」に感じられたのである。現実に似てないからリアル、なのだ。どこにも存在しないリアル。存在しないからこそ、リアル。たとえばハリウッドの最新CG技術で描き出されたモンスターが「リアリティー」があって人を恐怖させるのは、そのモンスターが現実に存在するものに似ているからではない。似ていないからこそリアルで怖いのである。

そして重要なのは、そのリアリティーは「現実」か「嘘」か、という単純な捉え方ではつかみきれないということ。もしも美術館に一歩入ったらそこには窓が一切なく、あらゆる壁と天井と床がショッキングピンクで塗りつめられ、そこらじゅうに首のないマネキンと鳥羽一郎のポスターが散乱していたとしたらどうだろう。単に内部は変わった空間だった、というだけである。外にある森が現実の森でありながら、窓を通して見たら「異なるリアリティー」を出現させたからこそ特別な体験だったのだ。つまり、現実の森は森でありながら、同時に「別のリアリティー」を含んでいるのである。「異」なるリアリティーがすでに現実の森に内在されていたのだ。

では、森だけではなく全ての「現実」が「別のリアリティー」を含んでいるとしたら?

 

別の例を。

ジュリア・ロクテフ監督のアメリカ・ドイツ合作映画「ロンリエスト・プラネット 孤独な惑星(The Loneliest Planet)」(2011)はこんなストーリー。

アレックスとニカは婚約したばかりのカップル。幸せの真っ只中にいる彼らは休暇旅行でグルジアを訪れ、現地のガイドに案内されてコーカサス山脈をトラッキングする。途中、山で出会った現地の男とちょっとしたトラブルが起き、男に猟銃を向けられる。アレックスは咄嗟に、ニカを盾にして彼女の後ろに隠れる動作をとってしまった。固まる表情のニカ。自分の行動に自ら唖然とするアレックス。トラブルはすぐに解け、現地ガイドと2人はトラッキングを続けるが、2人のあいだには目に見えない、それでいて決定的な亀裂が生じてしまう。2人は距離を保ったまま山を歩き続け、夜になる。アレックスをテントに残したニカは、昼間の山登りで打ち解けたガイドの男と焚き火の前で談笑する。男は自分のつらい離婚体験をニカに話す。「妻と別れて以来、女性に触れたことがないんだ」と言われ、導かれるままニカはガイドとキスをする。思いとどまったニカは男を制止し、アレックスのテントに戻る。アレックスと体を重ねようとする瞬間、酒に酔っていたニカはテントから飛び出して嘔吐する。そのまま何もせず2人は眠る。翌朝になり、3人は山を降りる。2人の関係はこれからどうなるのか、不透明なまま映画は終わる。

最も信頼し、最も自分を愛していると思っていた男性がある瞬間、まったく別のもの、「異」なる者として現れる。今まで信じてきた「現実」が全く別の顔を見せ「異物」に変貌する瞬間、それがこの映画のテーマだ。もちろん、アレックスにしてみたら言い訳はいくらでも可能だろう。猟銃を顔に向けられるという状況に追い込まれ、咄嗟に取った行動に意味はない、自分の意思ではない、他意はない、と。終盤のニカの行動にも同じことが言える。信頼していた恋人に嫌悪感をいだき、酒に酔って打ち解けた男性と話し、笑い、その流れで「不意に」キスをしただけだ。相手を愛したわけでもなければ、自分の意思でしたわけでもない。アクシデントだ、と。アレックスの「最愛のパートナー」としてのアイデンティティーが突然「異なるもの」として立ち現れるのと同様、ニカのアイデンティティーもアクシデントで「別のもの」になる可能性を常に秘めている。
日本で1979年に大ヒットした久保田早紀の名曲「異邦人」も同じことを気づかせてくれる。歌詞を引用してみよう。

 

異邦人

作詞:久保田早紀 作曲:久保田早紀


子供たちが空に向かい 両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
その姿は きのうまでの何も知らない私
あなたに この指が届くと信じていた
空と大地が ふれあう彼方
過去からの旅人を 呼んでる道
あなたにとって私 ただの通りすがり
ちょっとふり向いてみただけの 異邦人

市場へ行く人の波に 身体を預け
石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
祈りの声 ひずめの音 歌うようなざわめき
私を置き去りに 過ぎてゆく白い朝
時間旅行が 心の傷を
なぜかしら埋めてゆく 不思議な道
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
あとは哀しみをもてあます 異邦人
あとは哀しみをもてあます 異邦人

女はひとり、異国の地に降り立った。おそらく日本人だろう。「空と大地がふれあう」ほどの辺境の地。市場へ流れる人の波、喧騒、石だたみの道。時間旅行をする気分にさせる遺跡の数々。異国の地で雑踏に身を預け、女は心の傷を癒している。なぜ彼女は「サヨナラ」とだけ書いた手紙を残し、恋人のもとを去ったのか? その恋人が突然、自分を「異邦人」のように扱う瞬間を見たのだ。逆を言えば、恋人がある瞬間に突然、「異邦人」として立ち現れたのである。ひとたび「異」なるものが現れ、それまでの現実が崩れ去ると、昨日までの自分はもう、目の前で無邪気に鳥や雲に手を伸ばす子供のようにしか見えない。哀しみをその身にもてあまし、女はひとり異邦の地で傷を癒していく。

「ロンリエスト・プラネット」と「異邦人」に共通するのは、「疑う余地のないほど完全な現実・真実の中に、想像もつかないレベルの異なるものが内在されている」というテーゼである。

現実が揺さぶられるほどの「異」なるもの。それは「違う種類の現実」ですらない。面白いキャラの二世タレントが実はレイプ魔だったとか、偉人として知られていた人間が実は大量虐殺の首謀者だったとか、清純派アイドルが頭ハゲ散らかったオヤジ政治家の性奴隷だったとか、ウサギの耳だと思っていたのが実はアヒルのクチバシだったとか、Aが実はBだった、というのではない。「レイプ魔」も「首謀者」も「奴隷」も「アヒルのクチバシ」も「B」も、もうひとつのモノとして名指すことができる。現実にあるものとして。そうではなくて、もはや何かわからないもの、理解を超えたもの、これこれこうだと名付けることすらできないから「異」なのだ。

哲学ではそれを「他者」という。

他者は全くの「異」だから、もはや理解することはできない。できないから、それを直接指差して説明はできない。ならば、なぜ他者を語ることができるのか? 「完全な現実」にわずかな影が落ちているのを発見するからである。現実・真実が完全であればあるほど、ほんのわずかな影が存在するとわかった途端、完全が全く違う顔を見せるのだ。純金にほんのわずかな不純物が混じっていると分かった瞬間、「純」なものが一気に嘘になるように。もしアレックスがニカの後ろに隠れた後も、恋人のことをまるで愛していない素振りで非情な男であり続けたなら、わかりやすい形で「アレックスは非情な男だった」「AでなくてBだった」と理解できただろう。銃を向けられたとき、アレックスの「完全な」アイデンティティーに一瞬、わずかな影が現れた。ほんの一瞬のノイズだからこそ、それが彼のアイデンティティーをあり得ないレベルで揺さぶったのだ。一体この男は何者なのか?と。「他者」は、完全なるものが揺さぶられる瞬間、そのわずかな揺れ・影・ノイズを通じて存在を暗示するのである。

一方に「完全な現実」があって他方に「完全な嘘」があり、その間の白でもない黒でもないグレーなものが現れた、というのでもない。グレーだったら「グレーなもの」と名指すことができる。理解できる。「他者」は存在しない。存在しないからこそ、存在する現実に影が現れた瞬間、「この完全な現実は、実は完全な現実だと言い切れなかった」という理解の中にわずかに暗示される。つまり、他者とは現実のありかたそのものなのである。

トランプの「ババ抜き」、みなさんご存知だろう。普通のカードの中にジョーカーを混ぜておき、2人のプレーヤーが相手の手持ちカードから一枚ずつ引いてペアになったものを捨てていく。最後にジョーカーを手元に残したほうが負け。そのアレンジされたバージョンで、「ジジ抜き」というのをご存知だろうか。僕が子供のころ、友達とよくやって遊んだ。ジョーカーを入れず、その代わりに普通のカードを一枚抜いて、ババ抜きと同じルールでゲームをする。トランプのカードは全てがペアになるように揃っているから、例えばスペードの3を抜いておくと、3はハート、クローバー、ダイアの3枚だけになり、どれか一枚が最後に残る。それが「ババ」の機能を果たし、ゲームが進行する。ポイントは、どれが「ババ」になっているか、どちらのプレイヤーにも分からないままゲームが進むところ。カードが残りわずかになり、相手がこちらのカードを「うーん、どれにしようかな」と迷うドキドキとスリルがババ抜き最大の醍醐味であるのに対し、ジジ抜きは一体どれが「ババ」なのか、誰にも分からない。ゲームが終わるまで分からない。どれも普通のカードであり、同時にどれもがジョーカーでありえる。現実に「スペードの4」「ダイアのクイーン」などと理解できるカードが現実のまま、同時に「ジョーカー」=JOKER、つまり嘘をつく者でありえるのだ。どのカードを見ても具体的にジョーカーだと分からない。カード全てが、現実の全体が、世界のトータルがそのまま「どこかにジョーカーがある」ように成り立っている。

現実の中に、まさに「現実性」それ自体に、常に「他者」が内在する状態。「これが他者だ」と具体的に指差せるモノがどこかに隠れているのではなく、どの現実も他者でありえるし同時にありえない、という状態。

これは必ずしもネガティブな考え方ではない。「現実に嘘が含まれる」とか、「現実は幻想だ」というのではない。「現実なんて全て嘘なんだ!この世はみんな嘘っぱちだ!人間なんてララーラーララララーラー!」と新宿駅前でギターかき鳴らしたり盗んだバイクで走り出してしまったら、それは他者を「ネガティブなもの」と捉えたことになる。現実・真実・真理・正解を攻撃したり否定するようなモノと捉えたことになる。他者は「影」ですらない。「ノイズ」ですらない。「現実が必ずしもいつも完璧な現実であり続けるとは言い切れない」という現実のありかた、それが他者なのだ。

アレックスとニカの場合に戻ってみよう。最愛のパートナーが自分を盾にするような「異物」として現れたことにショックを受けたニカは、なぜ最後にアレックスのテントに戻ったのか? 自分も「異物」でありえることに気づいたからである。自分の中、「自分のアイデンティティー」のど真ん中にノイズが入る瞬間を認めたのだ。目の前のパートナーが「異物」になりえるとしたら、自分の中にある「自分の本質」にだって既に「異物」が混入しているはずである。

現代哲学者スラヴォイ・ジジェクは著書「The Ticklish Subject」の中で言う:

The point is thus to acknowledge “the presence, within the I itself, of a realm of irreducible otherness, of absolute contingency and incomprehensibility [...]”

(和訳)
要するに、「まさに「私」それ自体の中にある、何へも還元できない他者の領域、絶対的な偶発性と理解不可能性の領域の存在(後略)」を知ることなのだ。

アレックスが「これは自分でない」と思うのと同様、ニカも「これは自分ではない」という瞬間がニカ自身の中心に現れた。彼が私にとって理解を超えたモノとなりえたように、私も私にとって理解を超えたモノでありえるのだ。

フリッパーズ・ギターの曲「全ての言葉はさよなら」の歌詞にはこうある:

喋る笑う恋をする 僕たちはさよならする
カメラの中でほら 夢のような物語が始まる
分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ

僕たちはお互いがカメラのファインダーを通じてお互いを見ているような関係にある。カメラのファインダーを通じてお互いを夢物語の登場人物のように描いているだけかもしれない。相手の「本当の」姿は分からないのかもしれない。彼が自分にとって「他者」であるのなら、彼にとって自分も「他者」かもしれない。それどころか、自分とって自分も「他者」でありえるのだ。その中で、ひとつ分かること、分かり合えることがある。お互いに完璧には分かり合えないということだ。全ての価値が多様化され相対化され分散する世界に生きる者は、まさにその相対的世界の真っ只中にあって、逆説的に「分かり合えないこと」を強烈にシェアするのである。

そして他者の議論は、もう一歩進んで考えることができる。現実の中に他者が入りこんでノイズを起こしているのではない。そもそも最初から、すでにどこかしら他者であるモノ、場合によってはいつでも別の顔を見せられるモノを我々は「現実」と呼んでつきあってきたのだ。

カフェの窓から見えた森はこの世のどこにも属さないリアリティーを登場させた。だとすれば、そのリアリティーを常に含むものを我々は現実の森として捉えていた、と言えないだろうか。焼きそばソースのくたびれた日常は常に他者になる可能性を秘めている、と同時に、他者でありえるものを我々は「くたびれた日常」と片付けて生活しているのだ。

秋田から東京へ戻る車中、窓の外に広がる景色はどこか違って見えていた。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。