楽しく学ぶ倫理学 第9回 ソクラテスの規範(西洋古代倫理学小史その五)田上孝一

ソクラテスのよる規範の選択について考えるに際して、興味深い素材となるのは、弟子の一人であるクセノポンの『(ソクラテスの)思い出』に出てくる、プロディコスというソフィストの話である。この本の中でソクラテスは、プロディコスの語るヘラクレス物語について、詳しい説明をしている。ヘラクレスは若い頃、今後の人生をどう生きるかという選択に悩み、二人の女神からそれぞれ勧誘を受ける。一人は安楽で快楽に満ちた一生を約束し、もう一人は苦難に満ちた道であるが、死後永遠に語り継がれる栄光を得る生涯を語る。前者が悪徳の、そして後者が美徳の女神である。言うまでもなくヘラクレスは後者の道を選び、悲劇的な死とともに永遠の栄光を得たのである。

このプロディコスのヘラクレス物語は、一体何を意味しているのだろうか。明らかにそれは人間の生きるべき道を、倫理を問題にしている。そして倫理の問題は、当事者自身の選択に帰されている。英雄であるヘラクレスが美徳の女神の道を選ぶのは当然であるが、しかしそれはあくまでヘラクレス自身が選んだものとして、自らの主体的な選択の結果として描かれている。ヘラクレイトスやデモクリトスの決定論ならば、葛藤するヘラクレスは存在しない。決定論においては倫理的選択は、決定的な問題にならない。まさにプロディコスは、倫理上の中心問題が人間自身の主体的な選択であるというソフィストの中心的な問題提起を体現している。そしてこの物語を弟子に語って聞かせるソクラテスもまた、プロディコス同様に、ヘラクレスの選択を重視し、ヘラクレスのように選択すべきことを説いていると考えられる。

しかし、では我々は具体的にどうすればいいのだろうか?我々はヘラクレスのような英雄ではない。ごく一般の人間が、悪徳ではなく有徳な存在として人生を過ごすには、どのような基準で選択すればいいのだろうか?

これこそプロディコスが、そしてソフィストが提起したが、答えることのできなかった問であった。これを答えようとしたのが、ソクラテスであった。

ソクラテスは悪徳を退け、美徳にかなった人生を選択する基準として、「魂の世話」という方法を提起する。魂は各人が自らの内面に持つものである。故に魂の世話をするということは、各人が自らの内面を見つめて、外的な要素に惑わされずに、主体的に自己を確立せんとすることを意味する。つまり、魂を世話するのは、人間にとって外的で、人間の内面的な本質である魂を汚すような諸要素を退けるためということになる。ソクラテスはそのような外的要素として、地位や名誉、そして何よりも金銭を挙げている。これらの例示でソクラテスが意図したのは、多くの人にとって通常重要だと思われている世俗的な価値が、人間にとって実は重要ではないということである。

誰もが地位や名誉やそして何よりも金銭を欲する。それらがない若しくは少ない人生より、それらに満ちた人生の方が豊かで楽しい。誰もが当たり前に、それら世俗的価値を重んじ、追求する。しかし、世俗的価値のもたらす安楽さは、プロディコスの物語では悪徳の道ではなかったか。もし人間がただ生きるだけなら、安楽に生きればよい。しかしソクラテスにとって大切なことは、「ただ生きるのではなくて、善く生きること」であった。よく生きるためには、安楽をもたらす要素はむしろ障害になることがあるのだ。

例えば金銭はどうか。確かにお金があれば何でも買えるし、なければ何も買えず、そもそも生活ができない。では生活できるだけの金があればいいではないか?しかし、富裕な人はなおさら豊かになろうとする。使いきれないほどの金を持ちながら、なお多く金を稼ごうとする。しかし金というのは本来、それを使って何かをする手段のはずである。ところが実際には、金それ自体を目的にし、使うためではなくて貯めることそれ自体を目的に、富が追求される。この時、人は金を手段として支配するのではなく、むしろ金に支配されている。その戯画化が守銭奴である。

後の19世紀になってカール・マルクスは、人間が金を支配するのではなく、むしろ金が人間を支配するような転倒した事態を、典型的なVersachlichung(フェアザッハリッフング)だとした。Versachlichungとは人間がSache(ザッヘ=事物)に支配され、Person(ペルゾーン=人格)がSacheになっている状態である。人間はかけがえのない個人として、商品のように売買できるものではない。しかし、Versachlichungにおいては、人間は売り買いできるSacheになってしまっている。このようなSacheは単に事物であるのみならず、売買されうる物件である。マルクスはこのようなVersachlichung=物件化が支配する社会として、資本主義を批判した。

ではなぜ人間は物件化されるのか。マルクスはそれを、人間が自ら生み出したものによって逆に支配されるからだと考えた。そして人間が自らの産物によって支配されることをEntfremdung(エントフレムドゥング=疎外)という言葉で表現した。つまり人間は自らの産物から疎外されることにより、遂には物件化されてしまうとしたのである。マルクスはこうして人間が疎外され、人間を物件化するシステムとして、資本主義を批判したのだった。

そして実は、ソクラテスが見据えていたのは、後にマルクスがEntfremdungやVersachlichungという言葉で表現しようとした問題だったのではないかと、私には思えるのだ。つまりソクラテスが問題にしたのはまさにマルクス同様に、社会的な地位や名誉、それに金銭といった、人間自身が作り出したにもかかわらず、そしてそれらを人間が作り出したのは、それらによって人間が有徳な存在としてより人間らしくなるためだったはずなのに、むしろあべこべに、それらによって人間性が奪われ、人間が卑小になってしまっている事態を告発することだったのではないか。そしてこうした人間の自分自身の本来あるべき姿からの疎外を克服する方法として、「魂の世話」を提起したのではないかと思われるのである。

こう考えると、ソクラテスには偉大な意義と必然的な限界があるということができよう。偉大なる意義とはまさに、倫理学の中心問題の一つが人間の自己疎外とその克服にあることを見出したことだろう。人間は社会的な存在として、様々な社会制度を作り続けてきた。その本来の目的は、人間性それ自身の向上であり、人間が以前よりも偉大な存在になるためであったろう。ところが実際には、人間の作り出したものは人間の手を離れ人間の意図に逆らって、人間を偉大ではなくむしろ卑小にしてきた。このような人間の自己疎外を見つめて、その克服の道筋を見出すことが、人間が実際に善く生きるための必須条件である。こうした意味で、疎外の問題は間違いなく倫理学において、中心的な重要性を持つ問題の一つである。こうした疎外の問題を、古代社会という制限の中で独自に発見したのが、ソクラテスの偉大な理論的意義だろう。

しかし同時にその限界も明らかであった。それはソクラテスが、問題の解決をあくまで魂の世話というような、内面性の問題と考えたからである。確かに最終的に問題になるのは心である。しかし人間は自らの心の外側にある諸制度によって規定され、影響を受ける。心のあり方を変えるためには、社会のありかたそれ自体を変えることが前提されるのである。社会のあり方それ自体を変えるためには、その前提として、社会全体の詳細なメカニズムを解剖する必要がある。特に社会の土台となる経済のあり方を詳細に分析し、その本質をつかまなければならない。そのマルクスによる試みが『資本論』なのだった。しかしこのような知的作業は、マルクスにはできても、マルクスが行なったような社会科学が未形成の古代社会に生きるソクラテスにあっては、不可能であった。古代人であるソクラテスには、いかんともしがたい歴史的限界があったのである。

しかし歴史的な制限の中にあって、人間が自らの主体性によって人生を選択し、自らの魂を磨くことによって人間性の向上を目指したソクラテスは、倫理学そのものの祖とは言えないが、選択のための規範を中心概念にすえる、本来の意味での倫理学=規範倫理学を本格的にスタートさせた巨匠だと言えるだろう。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)