ロックと悪魔 第6回 宗教改革前史黒木朋興

前回は中世における悪魔譚のいくつかを紹介しキリスト教会の悪魔に対する姿勢を概観することによって、全能の神が創造したこの世界における悪の存在をどう理解するか、というキリスト教において伝統的な難問=アポリアについて考察した。

基本的に悪の存在を疎ましく思っているキリスト教は悪に強大なる力を与えることを認めていない。というわけで、ゾロアスター教など多くの神話に見られる善と悪の戦いの物語は「ヨハネの黙示録」を例外として基本的にキリスト教思想からは回避されてきた。すなわちキリスト教の正統は、神の軍団と悪魔の軍団が戦い最後に神の側が勝利を収めることによって世界に幸福がもたらされる、といった類の善悪二元論の構造を決して認めようとしない。例えば、アルビジョワ十字軍によって徹底的に壊滅させられた南仏のカタリ派が挙げられる。彼らが教皇庁から異端として認定されたのは、その善悪二元論が大きな理由の一つであったことは否めない。独立した悪の存在は、たとえ最終的に攻め滅ぼされるものであったとしても、キリスト教会にとって脅威であったのである。

その中で、プロテスタントが二元論を導入し、自らの教義を確立していくわけだが、今回はそのプロテスタントを準備した思想の流れを概観してみたい。

フィオーレのヨアキム
異端というわけではないが、プロテスタントに繋がる流れにおいて、まず12世紀に活躍したフィオーレのヨアキム(1135 – 1202)の思想を見てみることにする。

ヨアキムの独自性は「黙示録」の読解にある。それはまさに彼以降の終末思想の原型となり、おそらくはすべての革命思想に影響を与え続けていると言えるだろう。ヨアキムは「ヨハネの黙示」の「13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた」という箇所に関して、この七つの頭をキリスト教徒の敵である七人の人物として解釈している。ここでは弥永信美が『幻想の東洋』(1996) の中で行った解説を引用しておこう。

ヨアキムによれば、『黙示録』に述べられた「海より上がる獣」の七つの頭のうち、五つまでにはすでにこの世に現れて滅び − それらはそれぞれヘロデ王、ネロー帝、コンスタンティヌス・アリアーヌス[異端アリーウス派の皇帝コンスタンティヌス二世]、マホメット、メルセムトゥスに当る − 第六番目の頭は現在エルサレムを蹂躙するサラディン、そして最後の七番目の頭である反キリストその人は、「すでにローマに生まれている」という。

ここで重要なのは、ヨアキムが七番目の頭であるアンチ・キリストがすでにこの世に生まれている、とした点であろう。あるいは、ヨアキムの思想の特徴は、自分の生きているうちに世界が終末を迎える、としたことだとも言える。もちろん、世界の終わりに最後の審判が行われるという思想はキリスト教全体を特徴づける思想であると言って良い。ただ、ヨアキム以前ではその終末ははるか遠くの未来の出来事であるとされていた。自分たちが生きている時代は、来るべき終末、つまり最後の審判のための準備の時代であり、人々はいずれ来るであろうその時のために静かに祈りを捧げることを自らに課していたのである。であるならば、当然、アンチ・キリストとの戦いは少なくとも自分たちが生きている時代には起こらないことになる。ところが、ヨアキムは七番目の頭であるアンチ・キリストがこの世に出現しているとする。となれば、キリスト教徒は単に祈るだけではなく、このアンチ・キリストとの戦いに立ち上がらなくてはならない。

正確に言えば、この七番目の頭との戦いは最後のものではない。ヨアキムは歴史を三つの段階に分けて考えているのだが、このアンチ・キリストは第二段階の終わりを告げるものに過ぎない。この後に人間が霊的統一を完成させる第三段階目の歴史が続き、その終わりに最後のアンチ・キリストが現れ、それを倒すことによって歴史が完全に終結されると考えたのである。なお、この最後のアンチ・キリストが「黙示録」に出てくるゴグであり、「海より上がる獣」の尾に当たるとヨアキムは考えていたことを言い添えておく。

もちろん、最後のアンチ・キリストではなくとも、この七番目の頭がアンチ・キリストでありサタンに属するものであることに変わりはなく、さらにその戦いは第二段階の終わりとなるものである以上、激しいものとなることは改めて言うまでもない。そのような戦いにキリスト教徒は駆り立てられることになるのである。

このヨアキムの思想が後の革命思想に絶大なる影響を及ぼすこととなった。まず、神と悪魔の戦いになるので、善の側に手を貸さないことは必然的に悪の味方と見なされることになる。こうなると、世界は善と悪の二つの勢力に分けられることになってしまうだろう。また、何より、善と悪の戦いである以上、どんなにアンチ・キリストの力が強くとも最終的な神の勢力の勝利は決まっているので、この戦いにはいかなる犠牲を払ってでも積極的に参加するべきだ、という主張が声高に叫ばれることになるのである。この場合、どんなに敵の攻撃が激しくても、そしてそのために味方にどんな犠牲が出ようとも、戦いに邁進することが求められる。たとえ命を落としたとしても、神の名の下における戦いにおけるの死は殉教と見なされる。殉教ということは、死後の祝福が約束されているということであり、そうであれば信徒にとってもう恐れるものはない。また、敵の力が強力であれば強力であるほど、自分たちの前の敵がアンチ・キリストであることの証ということになり、戦士はさらなる闘争に駆り立てられる、という理屈が成り立つようになる。

革命思想の源流
自分たちは、神、あるいは正義と共にあるという確信が、さらなる運動へと人々を傾倒させる。また、弾圧されても、その弾圧が厳しければ厳しいほど敵が悪であることの証明だと思い込み、自分たちの正当性を喧伝することによってより過激な闘争に邁進する、という革命グループの特徴は、まさにこのヨアキムの思想に由来すると言って良い。

運動に手を貸さず日和見を決め込むことは敵に味方することと同じだ、というのは運動家が勧誘の時によく使う台詞であるが、ここにもヨアキムの影を見ることができる。つまり世界を敵と味方の二つの陣営に分ける二元論が、大きく作用していると言えよう。これも、現世にアンチ・キリストが出現している、という認識が大きく作用している。すなわち、悪の勢力が攻撃を仕掛けてくる以上、神を信奉する人間がその戦いに身を投じるのは信徒として当然の行いであるということだ。悪魔の攻撃がいくら激しくても、自分たちは善の側に立っているのだから、最終的に味方の陣営が勝利をすることは保証されているし、自分が死ぬことになっても、その死は正義のための死として讃えられるだろう。仮に自分たちが負けた場合にも、悪が支配する世の中に生きていていても意味はない、と考えることもできる。また、戦闘が困難であればあるほど、自分たちの戦っている敵がよりサタンに近いより重要な悪魔ということになり、戦いが終局に近づいている徴だと戦士たちは考えるのである。今の言葉で言えば、ラスボスに近づいている、ということだ。こういう集団は、弾圧を加えれば加えるほど、生き生きと闘争にのめり込む傾向がある。

抵抗思想と近代民主主義
自分たちの側に正義がある、という確信ほど厄介なものはない。彼らは時には違法行為すら辞さず、運動に邁進することもある。自分たちが掲げる正義に比して考えれば、多少の違法行為はやむを得ない、と断じるのである。なんと迷惑な人たちか!と多くの人は思うかもしれない。しかしこのような行動にも全く理がないわけではないことを確認しておきたい。それどころかこういう運動こそが近代以降の民主主義を支えているという見方もできるのである。

ここでは最近封切られた『スターウォーズ ローグワン』を例に考えてみよう。超強力な兵器の開発に成功した帝国軍に対し、共和国軍は会議で対応を協議する。その兵器を破壊するために帝国軍側のとある基地を全軍をあげて攻撃すべき、と主張する主人公たちに対し、提案は却下される。もちろん、会議の承認がなければ艦隊は派遣できない。にも関わらず、主人公と有志の一群は会議の決定に逆らって、その基地を急襲する。明らかな軍規違反である。だが、このタイミングで作戦を実行しなければ、遅かれ早かれ共和国軍は帝国軍に滅ぼされてしまう、という確信が主人公たちにはあり、それだからこそ会議の決定に従わないことは正しい、と判断したのである。実際、多大なる犠牲を払いながらも作戦はぎりぎりで成功し、共和国軍は救われることになる。

ここで問題となっているのは自由意志である。人間はそれぞれが理性を与えられており、ということはそれぞれが良心に基づいて理性を働かせ独自に行動する権利があるし、それは義務ですらあるという考えだ。つまり、集団の決定や規則がどうであれ、自分の理性が正しいと判断したことは積極的に行わなければならないのである。ここで、フランス語の良心がconscienceであることを指摘しておく。scienceとはもちろん現在では科学の意味だが、元々は知識という意味である。そしてconとは共通のという意味なので、conscienceとは共通知という意味になる。つまり人々が共通して持たなければならない知とは、良心だというわけだ。この良心に基づいて行動することは、集団の決定や規則・法律に優先される場合がある、というのが近代以降の民主主義を支える重要な考え方の一つなのだ。

対して、アジアの法思想はこれとは異なる。例えば法家として有名な韓非子を見てみよう。ある日のこと、韓の昭侯がうたた寝をしていると、それを見た冠を管理する役人が王に衣をかけた。その後、昭侯は起きると、衣をかけたのは誰かと尋ねた上で、衣を管理する役人と冠を管理する役人の両方を罰した。前者は職務怠慢、そして後者は越権行為ということだ。法は守られることによって社会に秩序が生まれ、それによって多くの人に幸福がもたらされるという思想である。ここでは良心よりも規則が重視されていることが分かるだろう。この思想はやがて儒教に吸収され、統治思想としてアジアの国々に影響を及ぼすことになる。

というわけで、良心を重視する思想は、アジアにおいては馴染みがないのは当然ではある。しかし、西洋から発する近代以降の民主主義においては極めて重要なものであることを指摘しておきたい。それは『スターウォーズ』のようなエンターテイメント作品にも反映している。このような思想が成り立つのも、人間とはそれぞれが理性を与えられた存在であることが大きい。その理性に基づき個人個人が自由に独自の判断をし行動することが求められているのだ。もちろんキリスト教の信仰において、この「理性」は「神」によって授けられたものであることは言うまでもない。近代とは「神」からこの「理性」を独立させた時代である。そしてそのような個人の意見のぶつかり合いによって社会が形成されるというのが、近代民主主義思想の根幹を成しているのである。

そのような理性を発揮して反抗をした結果、プロテスタントはカトリックの弾圧を跳ね返し、改革運動を軌道に乗せることに成功する。プロテスタントとは、反抗をする人々という意味だということを言い添えておく。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)