ロックと悪魔 第十六回 カトリック文学の悪魔3黒木朋興

前回は、テオフィル・ゴーティエの悪魔小説を三つ取り上げた。今回は、やはりゴーティエの『魔眼』(1856)を見てみたい。この作品は、悪魔を現実の存在とも空想の産物とも解釈できるように描くことによって読者の想像力を刺激するという技法が見事に成功しているからである。

この小説はフランス人の主人公ポール・ダスプルモンと、その恋人のイギリス人アリシヤ・ウォードの悲恋の物語である。二人はポールがイギリスを訪れた時に知り合う。アリシヤの母親は彼女が生まれた次の年に19歳の若さで病に倒れ、彼女は伯父の准将と暮らしている。客人として彼らのもとを訪れたポールを彼らは大変気に入り、二人はやがて結婚を意識するようになっていく。ところが、アリシヤは体調を崩してしまう。様々な治療の甲斐もなく健康は回復せず、医者は「最後の処方として、冬はピサ夏はナポリで過ごす」ことを勧める。その言葉に従い療養のためにアリシヤと准将が住まいを構えたイタリアのナポリの地に、家庭の事情で一旦イギリスからフランスに戻ったポールが合流し、二人が再会するところから話は始まる。

アリシヤはすっかり元気を取り戻し、久しぶりに会った恋人の前で自分の健康を誇って見せる。ポールも6ヶ月ぶりの再会に心を躍らせる。ところが、アリシヤと准将の女中であるヴィチェを始め、沖仲士のティムベリオやポールが泊まっているホテルの従業員といったナポリの人々はポールに奇異の目を向ける。彼らはポールが魔眼=ジェタトゥーラの持ち主であると疑いを抱いているのである。魔眼=ジェタトゥーラとは「禍いの眼を天から授かった」もののことであり、その眼の持ち主は「不本意にも視線が毒を含んでいて、善意しか抱いていないのに、それで見すえた人たちに害を加えてしまう」。つまり自分の意志とは関係なく視線を注ぐものに災いをもたらすことになり、となれば、自分の愛する人を見つめれば見つめるほど傷つけてしまうのだ。

そのポールに恋敵が現れる。アルタヴィラ伯爵といって地元ナポリの貴族である。伯爵はアリシヤに花を植えたたくさんの鉢と共に立派な一対の牛のツノの置き物をプレゼントする。これは何かと尋ねるアリシヤにアルタヴィラはジェタトゥーラに対する魔除であると答える。「避雷針がその先端で雷を招き寄せるように」この一対のツノは「有害な魔力をそらし危険な電気を取り除く」のだと言う。また「小指と人差し指を[…]突き出し、一方、ほかの指は掌の方へ折り曲げて親指にくっつけ」る手の仕草やサンゴの護符も同じ効果があると続ける。なお、この手の仕草はヘヴィメタルファンの間でコルナと呼ばれ悪魔を象徴するサインとして使われ、またヘヴィメタル以外にも全般的にロックの愛好者であることを誇示するサインとして広まっていることを言添えておく。伯爵は、アリシヤの側にジェタトゥーラがいると告げ、それは誰かとの問には答えずに、准将とアリシヤにいきなり結婚を申し込む。もちろん、ここでアルタヴィラが仄かしている魔眼の持ち主は主人公ポールであることは言うまでもない。

ポールはナポリの人々の奇異の目に晒され、人々が彼に向けて囁く「イエッタトーレ[ジェタトゥーラのイタリア語読み]」の声を耳にし不安になる。そして古本屋で魔眼=ジェタトゥーラについて記してあるニッコロ・ヴァレッタの『通常、魔眼と呼ばれる魔法に関する論究』という本を見つけ購入する。この本を読み、ポールは自分が魔眼者ではないかという疑いをかけられているのと同時に、自分が周りに害をもたらしているのではないかという疑念を抱くなるようになる。

確かに、彼の周りでは不思議なことが起こるし、何よりも、再会した時は元気を取り戻していたアリシヤが再び体調を崩している。気に病むポールの前にアルタヴィラ伯爵が現れ、アリシヤを賭けて決闘を申し込む。伯爵はポールがアリシヤの前からいなくなれば彼女は元気になると主張するが、二人に別れる気など更々ない。何よりアリシヤが何がなんでもポールと結婚すると言って譲らないのである。だとすれば、アルタヴィラにとって、ポールと決闘をして生命を奪うことこそが、アリシヤの将来のためにも自分のためにも唯一の解決策になる。

こうして二人はポンペイの遺跡で決闘を行うことになる。ポールは自分の魔眼が決闘に有利にならないように、互いに目隠しをして短剣を使うことを提案する。アルタヴィラは「歴戦の猛者」であったが、眼の見えない状態で闘うという状況のもと、不覚を取りポールの短剣に貫かれてしまう。ポールの足音を耳にした伯爵が勢いよく飛びかかると、そこには偶然ポールの短剣が待ち構えていたのだ。

自分には本当に妖力が備わっているのではないかとますます気に病んだポールは自分の両眼を潰してしまう。そしてアリシヤに会いにいくと、事もあろうに体調を悪化させていた彼女は既に亡くなってしまっていた。絶望したポールは崖から身を投げ行方不明になり、准将も血の気が失せすっかり痩せ衰える。

この悪魔小説の特徴は、悪魔そのものが登場しないところにある。ここでの主役は魔眼=ジェタトゥーラであり、確かにその背後には悪魔が隠れているのだが、魔眼者自身は悪魔ではない上に、この魔力は魔眼者の意志とは関係なく威力を発揮する。何より主人公のポールがこの魔眼=ジェタトゥーラの持ち主であるかどうかも定かではないのだ。すなわち、この小説は、ポールが魔眼者として視線を注ぐものに害を及ぼし、ついには恋人を死に追いやってしまう、とも解釈できるが、魔眼=ジェタトゥーラはナポリの迷信に過ぎず主人公は人々の噂のせいで気を病むようになり、恋人のアリシヤは元々抱えていた病気によって生命を落とす、とも解釈できるように書かれている。まさに悪魔の存在が現実のものなのかそれとも想像力の産物なのかを曖昧に書くという手法が十二分に発揮されていることになる。以下、この手法について詳しくみていこう。

ナポリについたポールの周りで不可解なことが次々と起こる。それは彼が魔眼者だからだ、とナポリの港で沖仲仕として働くティムベリオは仲間たちに主張する。

「海は鏡のように凪いでいた[…]ところが、でっけえ波がジェンナロの艀をゆっさゆっさ揺すり立てたもんで、あいつは仲間の二、三人といっしょに水に落っこちちまった。[…]なんせジェンナロは揺れなどにはびくともしない船乗りだ。[…]だが、汽船にさる旦那が乗っていて、妙ちきりんな具合にあいつをにらんだ。[…]ほかでもねえ、ポール・ダスプルモンの旦那っていうわけよ。[…]今朝がた、おれはあの人が窓のところにいるのを見た。破けた枕から飛び出した羽毛みてえな大きさの雲を一心に見つめてるんだ。とたんに黒い蒸気が寄り集まって、犬が立ったまま水を飲めるほどのすげえ土砂降りになった」

突然の大波と土砂降りをポールの魔眼のせいにしているのがわかる。また、ポールを魔眼者と見做しているのはこの沖仲仕だけではない。女中のヴィチェはポールに最初に出会ったから彼に向けて「魔よけの印」を結んでいたし、街ですれ違う人も露骨に彼を避けようとする。例えば、ポールがふらりと劇場に入った際の周りの反応を見てみよう。

ポールの近くにいた見物客は一人また一人と逃げ出した。ダスプルモン氏は立ち上がって、自分の生み出した奇態な効果にも気付かずに外へ出ようとしたが、廊下で彼には意味の分からぬ妙な言葉が小声でささやかれているのを耳にした。「魔の目(イエッタトーレ)だ!魔の目(イエッタトーレ)だ!」

 何よりポールの心を苛むのが、自分の眼が恋人の健康を害しているのではないかという疑念である。ポールがナポリでアリシヤと再会した時の描写を引用したい。

そして、彼は前でポーズを取っている令嬢を異様な眼つきでまじまじと見つめた。
突然、手柄顔に自慢していた晴れやかな血色が、太陽が地平線に沈むとき夕映えが山の雪の頬を離れるように、アリシヤの頬から消えた。ぶるぶる震えながら彼女は胸を手に当て、愛らしい唇が血の気をなくしてひきつった。

次に、二人が庭で散歩している時の描写を見てみる。

ポールは有頂天になって、熱情と歓喜にあふれたまなざしで長いことアリシヤを凝視した。- 突然、令嬢は青ざめた。激痛が鉄の矢のように彼女の心臓を貫いた。胸の中でどこかの組織がこわれたような感じがして、彼女はハンカチをさっと唇に当てた。赤い滴が薄いバチストの布地を染め、アリシヤはあわててそれを丸めた。

恋人を愛情を込めて見つめれば見つめるほどその人の健康を蝕んでしまっているのではないか、という疑念が主人公の精神を苛んでしまうことは想像に難くないであろう。こうしてポールはノイローゼに陥っていく。思い返せば、子供の頃から彼の周りでは不可解な事件が次々と起こっている。母親は彼が生まれてすぐに亡くなっているし、一緒に木登りをしていた親友は彼の目の前で落下して命を落とした。カヌー遊びをしていた二人の友人は川に落ちて帰らぬ人となり、フェンシングの試合をしていた友人は彼の折れた剣が突き刺さり瀕死の重傷を負った。何より、ロンドンの女王劇場で観劇の際、ポールがお気に入りのダンサーの演技を見入っていると、フットライトのガス灯が彼女の衣装に燃え移り火に包まれるという事件に遭遇したこともある。それまでこのような事件の責任が自分にあるとは露ほども思っていなかったし、もちろん「こういったことにはすべて理屈にあった説明がつけられた」のだが、よく考えてみれば「同じ人間の周りでこのように連続して不幸が起こるのは自然なことではない」 と言える。ポールは次第に「死の妖気、呪力、魔眼がこれらの惨事に深くかかわっているに違いな」いと思い込むようになる。以上のような記述からすれば読者には、魔眼は存在するように見えるだろう。

 対して、魔眼の存在を真っ向から否定するのがアリシヤである。

ミス・アリシヤ・ウォードはプロテスタントで、自由奔放な哲学精神の中で訓育され、検討を加えたのちでなければ何事も認めようとはせず、その率直な理性は数学的に説明のつかないものをいっさい拒否した。

カトリックにせよプロテスタントにせよ、キリスト教は元来理性を尊ぶ宗教であることを確認しておきたい。当然、迷信や民間信仰の類は低俗な文化として軽蔑の対象であり、そこで祭り上げられる神は時として悪魔の列に落とされることもある。このような闇を理性の光で暴き真理を尊ぶことこそが良きキリスト者の実践であることは言うまでもない。この姿勢はアリシヤの「わたくしはあなた方の、そのう、アフリカふうな迷信を存じませんので。だって、きっとそれ、なにか民間信仰に関係があるんでございましょうから」という台詞に顕著に表れている。

そのアリシヤを必死に説得しようとするアルタヴィラ伯爵は「わたしは文明人です。パリで育ちましたし英語やフランス語も話します。ヴォルテールも読みました。わたしは汽車や鉄道を、またスタンダールと同様に両院制議会をよしとする者です」と切り出す。光の世紀と呼ばれる18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールの名を挙げ、自分が無知蒙昧の輩ではなく十分理性的であることを強調しているというわけだ。つまり彼は女中のヴィチェや沖仲士のティムベリオとは違い、迷信を盲目的に信じるような人間ではないと言っているのである。その彼がそれでも魔眼の実在を主張する論拠は以下の台詞に集約されていると言えるだろう。

「もし、わたしがロンドンかパリにいるんだったら、多分あなた方とごいっしょにそんなものは笑いとばすことでしょうが、しかし、ここナポリでは……」

この考えはヴァレッタの著作を手にしたポールも共有していることを言っておきたい。

もしも、この本をパリで見つけたのであれば、ダプスルモンはばかげた話を詰め込んだ古くさい駄本とばかり、パラパラとめくって、著者がこんなくだらないことをくそまじめに論じているのを笑いとばしもしたであろうが、暮らし慣れた環境を離れ、小うるさいトラブルの続発で、なんでも本当だと思われそうな気分になっていたので、未信者が降霊術やオカルトの呪文を書いた秘教の本をつっかえひっかえ読むときのように、ひそかな恐怖をもってこれを読んだ。

つまりある社会の中で人々が強く信じていることは、時としてその社会の中で真実として機能することがあるということだ。事実、ポールはナポリの人々の奇異の目に晒されノイローゼを加速させる。

普通に考えれば魔眼など迷信に過ぎない。しかし、ナポリの人々の信仰は根強いし、何より、アリシヤの体調は悪化の一途を辿る。アルタヴィラ伯爵が伯父の准将に確認したように、ロンドンにおいてもアリシヤの体調が悪化したのはポールと知り合ってからのことだし、ナポリにおいてもフランス人の婚約者に再会するまで彼女は健康そのものであった。その彼女が再び病におかされるのはポールがナポリに来てからなのである。このように考えていけば、著者であるゴーティエは魔眼を実在するものと想定してこの物語を執筆しているかのようにも見える。

ここでアリシヤの母親のナンシーが19歳の若さで病死していることを思い出しておこう。ここから、アリシヤの病は遺伝性のものでありポールとは全く関係がない、という解釈も可能だ。すなわちこの物語は、魔眼は実在するとも実在しないとも、両方の読み方ができるように書かれていることが分かるだろう。

まとめてみよう。この小説の一番の特徴は、魔眼という悪魔の威力がその持ち主のポールの意志とは完全に切り離されているところである。つまり、悪魔は現世に直接姿を現すことなく、登場人物の身体の一部を介して間接的に影響力を及ぼしているだけなのだ。前回見た「オニュフリユス」においてはルビーの指輪をつけた男が登場するし、「死霊の恋」においては掘り起こした墓の中にクラリモンドという悪魔の身体が腐らずにきれいなままで横たわっているのを、主人公と彼の師は目撃する。そして「二人一役」においては主人公の代役を務める悪魔が現れ主人公の肩に鋭い爪で傷跡を残していた。対して、この作品においては悪魔は姿を現さない。ただ、登場人物の一人の眼に特殊な能力を与えているだけなのだ。

更に、この魔眼の実在すらも曖昧である。既に見たように、この小説は魔眼が妖気を放ち害悪を引き起こしているとも、それはナポリの人々による迷信に過ぎないとも、解釈できるように書かれている。しかも「オニュフリユス」における悪魔が主人公オニュフリユスの個人的な幻想であるかのように書かれていたのに対し、魔眼は一つの社会の多くの人々の間で共有されている信仰であり、多くの人々に信じられることによって社会の中で機能している様が描写されているのだ。まさにゴーティエのこの小説において、ロベール・ミュッシャンブレの指摘する「読者は、綴られた文字が現実を表明しているのか、それとも、喚起された内容の純粋に空想的な側面をなぞっているに過ぎないのか、決して判断が付かない」という、ミルトンやゲーテのようなプロテスタント圏の悪魔文学とは違うフランス文学の特徴が顕著に表れていることが確認できたように思う。フランスにおける悪魔文学の一つの頂点がここにおいて達成されたと言っても良いであろう。

このゴーティエの10歳ほど年下でやはり悪魔を謳ったことで有名なパリの詩人にボードレールがいる。しかし、ボードレールの悪魔はキリスト教の悪魔の様相を身に纏いつつ、キリスト教の枠組みを大きく外れ、ロック音楽に見られるような現代性へと大きく舵を切っていくことになる。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)