社会主義入門 第一回 今なぜ社会主義なのか田上孝一

これからの社会はどうなるのか、そしてどうなるべきなのかについて、現在では思考の大前提が変わりつつあるように思われる。

今から五十余年前、1960年代から70年代にかけては、世界的に反体制運動が盛んだった。「反体制運動」には多義的な意味が含まれ、経済や政治の体制のみならず、既存の文化のあり方も批判の俎上に載せられた。いわゆる「カウンター・カルチャー」運動として、西洋中心主義的にして男性優越主義的な伝統に鋭く否が突き付けられた。その問題提起は今なお輝きを放っている。

とはいえ、こうした反体制運動の核心にあったのはやはり政治や経済の問題であり、特に社会の土台となる資本主義経済のあり方自体を根本的に否定する運動であったことが、この時期の社会運動の基本性格だろう。カウンター・カルチャーの動きも、既存の文化を資本主義的な「ブルジョア文化」と捉える見方と連動していた。そしてこのことは、この時期の社会運動の基調が反資本主義運動であることを意味し、資本主義を乗り越えた社会としての「社会主義」なり「共産主義」を希求していたのが、この時期に運動に携わっていた多くの人々の共通意識だったと言えるだろう。

そしてこの時期の運動の特徴として、そうした新社会が直接的な行動、特に先鋭的な少数者が領導する革命運動によって実現できると思っていた人々が、特に若い世代では少なくなかったことが挙げられる。それだから今日では「過激派」だなどと揶揄されるいわゆる「新左翼」党派が大きく伸長し、こうした党派が希望を抱いた多くの若者のエネルギーを吸収することができたのだった。

今日ではこれらの人々を「世間知らず」だと罵る人も、運動に加わっていた人々の中にも「若気の至り」のように反省の弁を述べるような場合も珍しくはないが、当時の世界情勢からすれば、こうしたラディカリズムが全く空想的で荒唐無稽とは言えないところもあった。  

実際1956年に今や伝説となったプレジャーボート「グランマ号」にメキシコから乗り込んだキューバの革命戦士は100人に満たず、キューバ上陸後にバティスタ軍に殺されずに生き残ったのはたったの12人に過ぎなかったからである。キューバ革命は事実としてゲバラやカストロ兄弟らを含むこの僅かな生き残りによって成し遂げられたのだ。しかもゲバラやカストロは当時20代30代の若者だったのである。ならば学生や若年労働者を主体とした少数の精鋭で、どこでも革命は実現できるのではないか。これが当時の雰囲気として共有されていたわけだ。

確かに実例があるのだから、若者が革命を夢想したのは無理もなかったともいえる。しかし革命前夜のキューバとこの時の日本や欧米が全く異なっていたのも事実である。国民の大多数が軍事独裁政権の抑圧に反発を覚えていたキューバと、高度成長に沸く日本が同列に並べられるはずもないのである。こちらの事実からすれば、キューバ型の革命及び、その前提となるレーニンまたは毛沢東主義的な暴力革命が60年代の先進資本主義諸国で実現するには、まさに革命の物質的前提条件を重視するマルクス主義的な観点からして、ありえなかったのである。

こうして世界的な革命運動の高揚は原理的な敗北によって過ぎ去っていき、まだ革命への熱望を捨てきれない少数の人々は過度の先鋭化により自滅していった。内ゲバ殺人や同志殺しの衝撃は、まだ幾分なりとも残っていた学生運動への世間一般のシンパシーを失わせるに余りあるものだった。

そして80年代に入りソ連ではゴルバチョフが登場し、彼により始められた刷新運動であるペレストロイカは社会主義の新たな可能性を垣間見せたかに思えたが、情報公開促進のグラスノスチと共に、タブーを取り去って緩められた手綱はソ連の騎手だったゴルバチョフ本人の予期しなかった奔流となり、あくまでソ連社会体制維持を前提した上での改善を求めていたゴルバチョフの意図を裏切り、ソ連社会そのものの崩壊という予期せぬ結果をもたらしてしまった。

私もそうだが、この当時の殆ど誰もが、その中には長年にわたって社会主義を研究しているような人も含まれるが、まさかこんなにも急速にあっけなくソ連自体が消滅してしまうとは思いもよらなかった。今となっては笑い話だが、ソ連崩壊の少し前に出版された未来予想本があって、今後どうなるのかというSF的予想が縦横に論じられていたが、その未来社会にはしかし、しっかりとソ連が存続していたのである。未来予測の専門家も、直後に起こるソ連自体の消滅は予想できなかったわけだ。

こうして予想外の世界史的大事件であるソ連崩壊は一般に、マルクス主義及び社会主義一般の死刑宣告だと受け取られた。

実際にはマルクス主義も社会主義も一様ではなく、反ソ連をアイデンティティにしていた潮流もあったわけだから、ソ連崩壊はそうした勢力には何らのダメージにならず、むしろ歓迎の声を挙げた向きあったのである。

とはいえ、我が国などでは、本来は反ボリシュエビキで社会民主主義勢力であるはずの「社会党」内で、なぜか親ソ勢力が主流だったりしたことに象徴されるように、取り分けてソ連の影響が強い知的土壌があり、ソ連の崩壊は左翼勢力に決定的なダメージを与え、社会全体の雰囲気としても、マルクス及び社会主義は終焉したという雰囲気が広く蔓延した。

こうしてソ連崩壊からしばらくの間は、マルクスも社会主義も、研究者や活動家などの一部の好事家を除き、まさに過去の遺物のように扱われたのである。

そうはいっても資本主義は所詮資本主義であり、あくなき利潤追求が深刻な社会問題をもたらす状況は変わりようもない。そのため、このままでは駄目だという雰囲気はあまねく漂い続けてきた。しかしその解決方向はソ連崩壊の生々しい記憶と共に、あくまで資本主義のままでの改良か、よくても建前上は社会主義的変革を掲げながらも実際は資本主義の枠内での改善に留めるというところで止まっていた。

社会変革への希求は根強いものの、社会主義的な変革は求めないというのが、ついこの前までの思考の大前提だったように思われる。ところが最近になって、この大前提がどうやら崩れつつあるような雰囲気が漂っている。求められているのは資本主義枠内の改良ではなく、資本主義そのものの変革ではないかと。

こうした知的雰囲気の変化には様々な原因があろうが、一番大きいのは単純な時間の経過だろう。今や21世紀に入って20年が過ぎ、ソ連崩壊は30年以上前の歴史的事件になった。若い世代にとっては同時代の生々しい記憶どころか、生まれてすらいないのである。この年月の経過は、社会主義の記憶と共に、社会主義に付きまとっていた負のイメージも一緒に風化させたのである。

これに対して、「社会主義」に勝利したはずの資本主義も無目的な利潤追求がもたらす貧困問題や環境破壊を解決できることなく、「このままでは駄目だ」という社会意識をなお一層拡大させている。そしてこれまでは、どんなに問題があっても我々が選択できる体制は唯一資本主義のみだという知的雰囲気が蔓延し、これが社会問題を考える際の揺るがぬ大前提となっていた。しかしまさにこの前提そのものが地殻変動を起こし、崩壊してきているというのが昨今の知的状況ではないかと思われる。

つまりソ連東欧という現実(に存在した)社会主義の崩壊という決定的事件によって一度はその命脈が経たれたと広く観念されてきた社会主義が、新たに復活してきたわけである。

社会主義復活を象徴する事実としてよく取り上げられるようになったのは、資本主義宗主国のアメリカの若い世代で、社会主義支持が急増しているという報告である。複数の大規模調査が、多くの人々が社会主義及び社会主義者の政治家に親和的であり、とりわけ青年層では過半数若しくは半数近くが資本主義よりも社会主義を支持しているという。今やすっかり大統領選の顔となったバーニー・サンダースや若手のスター政治家であるアレクサンドラ・オカシオ=コルテスははっきりと社会主義者を自称してるし、支持者も彼らが社会主義者であるとことを認識した上で投票している。そして彼らを支持する「アメリカ民主社会主義者」は急速に党勢を拡大している。

そしてこの「民主社会主義」は、明確に旧来型のマルクス―レーニン主義とは異なると宣言されている。実際これから求められる社会主義はどのようなものであっても、現実社会主義のイデオロギーだったような硬直した旧来型マルクス主義では有り得ない。

このようなアメリカに比べて、世界でもとりわけ社会主義支持率が低いという知的土壌のせいか、我が国は若い世代の間でもまだはっきりと資本主義を拒否し社会主義を支持する声は大きく広まっていない。だがソ連への偏見によって頭ごなしに否定するというかつての作風は明らかに変わりつつある。 

そこで求められるのは、社会主義とは何であり、何であるべきかという知的案内であり、コンパクトな社会主義入門である。それが本書の目的ということになる。

勿論社会主義思潮は巨大であり、短い著書で全貌を語ることはできない。ここでできるのは社会主義の膨大なトピックの中の一握りに過ぎない。そしてこうした概略的な解説すらも、仮に社会主義思潮の全領域を網羅しようとしたら、辞書的な浩瀚さが必要とされざるを得ない。

そこでここでは、私が正しいと考える社会主義のあり方を明確にした上で、これまでの主要な社会主義思潮を、望ましい社会主義のあり方という管制高地から配置してゆくという形で叙述を行っていきたい。

このため本書は、どことも知れない場所から自らの価値判断は前面に出すことなしに淡々と時系列のみ説明していくような解説書とは一線を画している。そうではなく、各社会主義思潮の思想的核心を簡潔に解説し、それを私が思う望ましいあるべき社会主義を価値基準にして評価することを通して、これからの社会主義的変革の展望を問題提起する形で議論を行う。だから著者である私ははっきりと社会主義を支持する社会主義者であり、社会主義者である著者が読者を社会主義に誘おうとする社会主義入門だということである。

そういう本書であるため、全体の議論の前提となるのは私の基本的な視座となっているマルクスの理論である。つまり本書は、私なりに理解されたマルクスの社会主義像が、社会主義のあるべき姿を指し示すものと捉えて、こうしたマルクスの社会主義論を視軸に据えて、マルクスとの対比において各社会主義思潮を位置づけるという方法を取ろうとする。

このため、何よりも大事なことはマルクスの社会主義像がどのようなものかというその理論内容を明確にすることである。この点で、私のマルクス理解は「世界で誰も言っていない」的な夜郎自大に陥ることは自戒しつつも、確かに卑見では同じ内容を論じている先行研究を発見できていないという面がある。その焦点は私のゲノッセンシャフト理解にあるが、マルクスのゲノッセンシャフト論についての私の、恐らくは独自な解釈については、既に『99%のためのマルクス入門』(晶文社、2021年)をはじめとする既発表の拙著や拙稿で披歴している。本書は社会主義入門ということもあり、マルクスの社会主義構想を先行著作より幾分詳しく解説することにしたい。

勿論マルクスを基準とするといっても、マルクスを教祖としてこれを奉じるような疑似宗教的態度を私自身が取っているわけでも、読者をマルクス教徒にさせようとしているのでもない。私のマルクス解釈自体がこれまでなされてきた標準的なマルクス解釈とは対立する部分を含むものだし、『99%のためのマルクス入門』の読者は承知しているように、マルクス本人に対してもその歴史的限界を明示しながら是々非々で受け止めるという態度で接している。なおその上で、基本的な理論の枠組みとしては批判的に摂取されたマルクスの立場であるという意味で、マルクス主義者を自負しているわけである。

こうした私自身の思想的立場は、私なりの「批判的マルクス主義」とでもいえるだろうものだが、ここで「批判的」というのは、マルクス的な観点から対抗思想を批判するという意味のみならず、マルクス自身に対してもその死せるものに対しては容赦なく批判し切り捨てるという自戒を込めた、そういう二重の意味で批判的だということである。本書はこうしたマルクス主義者である著者が、批判的マルクス主義の立場から各社会主義思想を俯瞰し、著者なりに独自に解釈されたマルクスの社会主義構想の現代的アクチュアリティを問題的することを最終目標としたものだということができる。

このような本書の目的にとって議論の大前提となるのは、現実社会主義とマルクス自身との関係を明確にすることである。

現実社会主義とマルクスとの関係の理解については、世間一般と研究者の間では大きな隔たりがある。一般的には現実社会主義は社会主義社会だとされ、かつそれはカール・マルクスその人の理念が地上的に現出したものだと見られている。そのためソ連東欧社会の崩壊は、そのまま社会主義の崩壊であると共に「マルクス主義」の誤りの実証ということになる。だからマルクスというのはその誤りが歴史的に裁かれた過去の人であり、その思想には何らの現代的アクチュアリティもないというようなのが、世間一般で流布されている標準的理解なのではないかと思われる。

これに対してソ連がマルクスの理念の実現などと考えている研究者は、今は殆どいないのではないか。仮にソ連を社会主義と認めるとしても、それは望ましい理想的な社会ではなく、マルクスその人の社会主義構想の延長線上にあるとは見なし得ないというのが、少なくともまともな研究者間で共有されている前提と言えるだろう。それどころか、現在ではソ連を社会主義としない見方が、むしろ主流となっているように思われる。

そうしたソ連を社会主義としない見解にも、社会主義への過渡期であり、社会主義を実現する前に潰えたと見なしたり、過渡期といっても正常な発展コースではなく歪められていたとか、あるいは社会主義への過渡ではなく、そもそも社会主義と原理的に異なる社会だったという意見もある。こうしたソ連非社会主義説の中でも特に現在の研究者間で有力なのは、ソ連は資本主義または国家資本主義だとする説である。

当然こうしたソ連非社会主義説にあっては、ソ連はそもそも社会主義ではないのだから、マルクスの社会主義構想の地上的実現では有り得ないということになる。

こうした諸説が林立する中でまずはどう考えるべきかだが、ソ連が社会主義かどうかはともかくとして、少なくともマルクスの考えた社会主義では有り得ないというのが最大公約数的な大前提となるということだ。

この前提の上で、では本書ではマルクスと現実社会主義をどう捉えているかだが、具体的な内容は後論するものの、先ずはここで言いたい本書が一番言強調したい論点とは、ソ連は社会主義ではなく、そしてソ連が社会主義では有り得ないことを理論的に根拠付ける最も信頼できる論拠が、他ならぬカール・マルクスの社会主義構想だという点である。これはつまり、他ならぬマルクスの社会主義論こそが、ソ連が社会主義ではないことの最も強固な論拠となるということである。それだから社会主義とは何かを理解するためには、社会主義への基本的な分析装置となるマルクスその人の理論的本質をしっかりつかむ必要がある。

それとともに、現代において社会主義のアクチュアリティを宣揚する、しかもマルクスの原像に立ち返りつつそうするというのなら、マルクスの理論が彼の時代にはなかった現代ならではの諸問題に時代を超えて対応できているのかというのが当然の焦点になろう。

そのような問題の中でもとりわけ重要なのは、やはり環境問題ということになろう。

勿論マルクスも環境問題について何も考えなかったわけではなかった。それどころか彼は同時代人の中でも際立って鋭く環境問題を見据えていた一人だった。それは彼の主要な研究対象である資本主義が、あくなき利潤追求によって自然破壊をほしいままにしていたからである。

そもそも環境破壊それ自体は、何も近代や産業革命固有のものではない。既にギリシアのような古代文明でも深刻な環境破壊が見られたのである。

当然産業革命を経て蒸気機関を改良させ続けているマルクスの時代は、その生産力の発展により深刻な環境破壊を引き起こしていた。とはいえそうした環境問題はなお地域的な公害として現出していたのであり、その主要舞台は都市であって、農村を含む一国全体の問題とは言えなかった。

ところが現代において環境問題は都市問題であるどころか、一国の国境を飛び越え、地球全体の問題になっている。つまり現代にあって環境問題の核心はそれが局所的な都市公害であるのみならず、人類全体にとっての「地球環境問題」になっていることにある。当然その焦点となるのは温暖化で、温暖化とは人為的に排出される二酸化炭素を中心とした温暖化ガスの急激な増大により地球の自然なリズムでは有り得ないスピードで地表全体の平均気温が上昇していることである。つまり現在の生産力は都市の枠をはるかに超えて、地球環境全体までも変容できるまでの水準に高まっているのだ。

このような事態はマルクスの全く想定しなかったことだろう。そしてそれは当然でもある。マルクスに先駆するシャルル・フーリエは主著『四運動の原理』の中で、人類の歴史を繫栄と衰退を繰り返すものとして描き出した。こうした壮大な循環的歴史観は古くは古代ギリシアのエンペドクレスに見られ、フーリエもその影響を受けているのだろうが、いずれにせよ人類自体の滅亡を視野に入れた壮大な歴史観は珍しくはなかった。とはいえそうした壮大な歴史を説明する原理はエンペドクレスの「愛憎」にせよフーリエの「情念引力」にせよ、その実在は全く検証することのできない形而上学的な原理若しくは宗教的な信念に過ぎなかった。

これに対して現在の地球環境問題は、まさにマルクス自身もそこに連なる社会についての科学の枠内で説明可能な事態なのである。それどころか、生産力の発展というマルクス自身が社会を見る際の中心的な視座それ自体が、地球環境問題への本質的な説明原理になる。まさに生産力の発展それ自体が、地球環境を変容させ、人類文明それ自体を危機に陥らせているのが、現代という時代なのである。

このような現在の地球環境問題をマルクスが予期できなかったのは当然のことだろう。マルクスは資本主義が地球大的な規模で自己増殖する運動体であることを強調し続けていたが、だからいって資本主義が地球全体の環境をも荒廃させ、人類を絶滅の危機にまで押しやるとまでは言わなかった、そのような発言をしたらフーリエのような予言者の類だと誤解されるのではないかと恐れていたのだろう。しかしこのマルクスの当時としては至極常識的な判断を乗り越えてしまっているのが現代という時代なのである。

これに対して、いやマルクスは実は現代の地球規模の環境問題を見据えていて、経済発展それ自体を否定して「脱成長」を説いていたのだなどと説くのは、マルクスをノストラダムスのような予言者に祭り上げることだろう。最近はかつての低評価に代わってマルクスが高く評価される傾向があり、当然それ自体は望ましいが、その内実が19世紀人のマルクスを現代人と無媒介に同列に並べ、マルクスを何か時代を超越した絶対的真理の体現者のように神格化するようなことだとしたら、素直には喜べない。こうしたカルト的な祭り上げは、事情を知らない人には面白く、ノストラダムス化されたマルクスへの一時的な熱狂を生むかも知れないが、所詮は張子の虎であって、虚偽の勝利は一時に過ぎず、やがては真実に打ち負かされるのである。

環境問題においてマルクスを生かす方途は、こうした生身のマルクスを無視したトリッキーな解釈を打ち出して世間を欺くことではなく、常識的な読解態度の延長線上にマルクスの理論的可能性を模索するという方法であるべきだろう

マルクスの常識的な読解とは、テキスト内在的にはマルクスの特定の文言を取り出して他の証言との整合性を無視して自分に都合の良い一面的な立論をしないことであり、マルクスその人が生きた時代状況という外在的なコンテキストを十二分に踏まえることである。それはマルクスに限らず誰しもが逃れることのできない歴史的限界を踏まえた上で、その中から現代に生かせるものを見出していくという解釈態度である。

こうした常識的な読解方法によってマルクスの現代的アクチュアリティを見出そうとすれば、それは当然マルクスの文言を金科玉条化するような教条主義的な態度ではなく、マルクスを用いて行う分析対象のみならず、分析道具であるマルクスのテキストそれ自体にも批判的な視座を怠りなく行き渡らせるという作風である他ない。つまり環境問題でもまた、先に提起した批判的マルクス主義という立場に拠ることが要請されるのではないかということだ。こうした批判的なマルクス読解から導き出される環境問題への社会主義的及び共産主義的解決の具体像は後に改めて論じたい。

ともあれ、あくまで私なりに批判的な読み込んだマルクスに基いてではあるが、こうした批判的マルクス主義は環境問題ではその理論的アクチュアリティを発揮できないどころが、むしろ環境問題においてこそマルクスの理論的可能性が大きく広がっているのである。このことはまさに、環境問題こそが社会主義の理論的可能性を指し示す確かな一領域ということになる。だとすると、環境問題こそは取り分けて資本主義という枠組みそれ自体を問い直し、旧来型ではない新たな社会主義的変革への希求という知的雰囲気が広まってきた主要原因の一つとも言えよう。本書ではマルクスを中心にしつつ。社会主義と環境問題についても論じる。

追記:この連載を元に社会主義入門書を出版する予定である。そのため本稿では「本書」という表現を用いている。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)