十分でわかる日本古典文学のキモ 第六回 『風姿花伝』(上)助川幸逸郎

ここは「あちら側」の世界に建てられた「芸術家会館」の一室。一九八二年に亡くなったカナダのピアニスト、グレン・グールドがヤマハのアップライトピアノを弾いている。

「あちら側」では、当人が希望した年齢の肉体で人びとはすごす。グールドは、三十代なかばぐらいの外見をしている。彼はその時分に達するすこしまえに、コンサートでのライヴ演奏をやめ、録音と録画に専念するようになった。

 グールドが奏でているのは、バッハのインヴェンションの一番である。無心に指をうごかす彼のほうへ、ひとりの老翁が歩みよってくる。老翁の顔には静かな、しかし心底嬉しそうな笑みがうかんでいる。

グールド:(ちかくに立っている老翁に気づき)もしかして、ゼアミ、さん?

世阿弥:わたしのことを知っててくれたんだね。ありがとう。

グールド:いや、あの——世阿弥さんにお目にかかれるなんて、僕、めちゃくちゃ感激だな。こっち側に来てからですけど、僕、世阿弥さんの舞台、何度も拝見したんです。それで、とてもおもしろかったので、世阿弥さんがお書きになった評論みたいなヤツも読んで……。

世阿弥:グールド君にそういってもらえると、わたしも嬉しいな。きみがあっちにいたころから、わたしはきみの弾くバッハが好きだった。

グールド:えっ、えっえっえっ。世阿弥さん、僕のことご存じなんですか?

世阿弥:きみがあっちでコンサートから撤退したとき、「プロのピアノ奏者にはあるまじき行為」って、こっちのメディアで、フランツ・リストさんが批判してね。そうしたら、「グールド君の気持ちもわかる」って、ショパンさんが弁護したもんだから、ちょっとした騒ぎになって。

グールド:おはずかしいです……

世阿弥:だから、きみがあっちにいたときから、こっちの音楽好きはみんな、きみを知っていた。

グールド:(しばらくのあいだためらってから)あの、ゼアミ、さん?

世阿弥:うん?

グールド:直接、お話しするのは初めてなのに、こんなことをうかがうのは不躾かもしれないんですが——

世阿弥:それは、わたしにこたえられる質問かな?

グールド:ずっとまえから、世阿弥さんにおたずねしたいと思ってたことがあるんです——世阿弥さんは、舞台に立つのが怖くなるときって、なかったですか?

世阿弥:それは——まあ、しょっちゅうだったさ。

グールド:えっ? そうなんですか?

世阿弥:とくに、これまで行ったことのない土地で公演する場合とかね。

グールド:「舞台に出ていったら、客の期待がピークに達した瞬間を見きわめて最初の声を出せ」とか、世阿弥さん、お書きになってるじゃないですか。僕てっきり、世阿弥さんは、お客を完璧にコントロールしきれてる方なんだと思ってました。

世阿弥:とうとう、お客さんにうけいれてもらうこつ、、をつかんだ。そう思ったあくる日に、観てるひとたちにまったく反応してもらえないで、どん底に落ちこむ——そんなことのくり返しだったな。

グールド:なるほど。でも、言葉はわるいですけどそれって、お客さんに振りまわされてるわけじゃないですか。じぶん以外のだれかにいっさい介入されないところで、理想のパフォーマンスをしたいとかって、思ったことありませんか?

世阿弥:それは、なかったんだよね……つまり、こういうことなんだよ。わたしらのなりわいは、もとは神社でやるイベントのにぎやかし、、、、、みたいな、そんな感じのものでね。それを、わたしのおやじなんかが、武士の上のほうのひとたちに近づいたりして、もっといろんな機会に観てもらえるようにした。だから、わたしの時代のお能っていうのは、まだひとつのジャンルとして確立されてなかったんだな。

 いまだったらさ、「お能はすばらしいものらしい」って話に聞いて、お客さんのほうで一生懸命お能をわかろうとしてくれるかもしれないよ。でも、わたしらのころは、「お能はこんなにいいものですよ」って、お客さんを誘わないといけなかったんだ。

グールド:だけど、あれですよね。舞台にあがるとき、集中して、神経をとぎすますわけじゃないですか。そういう状態でお客さんの気配にアンテナを向けたら、「もう絶対、これは無理!」というような、邪悪なものが入りこんできたりしませんでしたか?

世阿弥:それはたしかにあったよね。「邪悪」っていっちゃうと言葉がすぎる感じはあるけど、「そこにチューニングするとこっちが壊れる」って思うような、ヤバい波長を出してるお客さんはたまにいたかな。

グールド:僕、そういうのに耐えられなくなってコンサートやめたんですよ。お客さんの雰囲気だけじゃなくて、会場のピアノのコンデションがまずいのに、本番まで調整しきれなかったりとか、じぶんではどうにもできない要素がライブには多すぎるんで。

世阿弥:それでもきみは、ピアノはやめないで済んだわけだろう?

グールド:はい。スタジオでピアノを弾くのは、ぜんぜん、いやにならなかったです。

世阿弥:グールド君はめぐまれてるよ。スポンサーや一般のお客さんのまえに出なかったら、わたしらは能役者でいられなかったんだから。

グールド:じぶんが壊れそうになっても、ポリシーを曲げなきゃならなくっても、舞台に立ちつづけたってことですか?

世阿弥:お能ってフィールドそのものをメジャーにしたかったし、何よりじぶんの子孫が一座をうけついで、ほかの流派に負けずにがんばって欲しかったしね……生きのこるために、必死にいろいろやる感じだったかな。

グールド:世阿弥さんの評論みると、「立ち合い勝負」っていうんですか、べつの役者さんと演技の優劣を競うイベントで、どうやったら負けにくいか、みたいなことも、かなり具体的に書いてありますよね。

世阿弥:お能を論じる本を、わたしはぜんぶ、子孫に生きのこり術をつたえようと思って書いたから。そんな、すごく高級なことはいってないんだよね。たとえば、「秘すれば花なり」って、書いたことがあるんだけど。

グールド:それ、もちろん知ってます。

世阿弥:よくね、「たいせつなことは、あからさまにいわないほうがつたわる」とか、「いちばん価値のあるものは目にみえない」とか、そういったことをわたしがいいたかったって解釈するひとがいるけどさ。

グールド:僕も、どっちかっていうとそっち側の意味で受けとってました(笑)。

世阿弥:わたしが考えてたことは、もっと実際的でね。「立ち合い勝負」のときに、ふだんやらない演目とか、演じかたを出すと、お客さんも沸くし、勝負の相手も気おされるし、とにかく効くんだよ。

グールド:それって、野球の大きな試合で、ピッチャーがふだんつかわない球種を投げたりするのとおなじですか?

世阿弥:そう。フォーシームとスプリットしか投げないと思ってたピッチャーが、いきなりカットボール放ってきたら、バッターは打てないわけだよ。そのカットボール自体に、たいした球威はなかったにしても。

グールド:想定外のボールが向かってくるんですものね。

世阿弥:でもあらかじめ、「このピッチャーはカットボールもある」ってわかってたら、けっこう打てるだろう?

グールド:ああ、ああ、ああ——だから「秘すれば花」なんですね……そうか、そういう意味なのか。

世阿弥:どうってことのない平凡な球筋のカットボールが、ふだんつかわないでおくことで、いざというとき「魔球」になる場合もあるというね。

グールド:僕はその、つまり、「秘すれば花」って、こういう意味なんだと思ってたんですけど——僕の頭のなかで、「理想の音楽」っていうんですか、楽譜から読みとったそのままの音楽が鳴ってるんですよ。

世阿弥:わかるよ。

グールド:でも、さっきいったお客さんの反応とか、会場の音響のかげん、、、とか、いろんなものにしばられて、頭のなかの理想って実現できないんですよ。

 それで、これは世阿弥さんにわかってもらえるかな……じぶんがいま、触ってるピアノをまったく意識しないでね、じぶんが出してる音さえ聞こえてない状態が、じつは頭のなかの理想にいちばん近づきやすいのかな、って思ってて。

世阿弥:無心にならざるをえないってことだよね。そういう感じで弾いてれば。

グールド:それが僕の「秘すれば花なり」なんです。じぶんのやってる音楽をじぶんから隠したときにいちばん、いい演奏ができるという……

世阿弥:グールド君は、じぶんからは隠された状態で演奏した音楽を、あとになって確認できるわけだろう?

グールド:それは、できますね。

世阿弥:わたしらのころは、録音も録画もないから。だから、「演じているじぶん」は無心になったとしても、いっぽうで「演じているじぶん」をお客さん目線で観察するっていうのかな、そういう部分がないとやっていきにくいわけだよね。

グールド:「離見の見」ってやつですね。

世阿弥:それと、さっきもいったみたいに、わたしがあちら側にいた時代のお能は、まだまだ完成されてなかったんだね。わたしはずっと、お客さんたちの反応をみて、理想のお能を手さぐりしている感じだったかな。

グールド:世阿弥さんでも、めざす方向性がとちゅうで変わったりしたんですか?

世阿弥:そのときどきで、お能にもとめられるものもちがってくるしね。あと、わたしらにとっては、室町の将軍さまの要求っていうのが大きかったな。

グールド:将軍さまって、そんなにあれこれ口をだしてくるものなんですか?

世阿弥:直接、あれこれいわれることもなくはなかったけど、それよりね、将軍さまがかかわるイベントで、どの役者がお召しをうけるかっていうね。

グールド:そういうの、やっぱ、気にされてたんですか?

世阿弥:将軍さまにおもんじられてる度合というのが、世間からみたその役者のランキングみたいなものになっちゃうところがあって。

 将軍さまにサポートされてると、いろんな機会に、それこそ大きな神社がやる催しなんかに、いいポジションで呼んでもらえたりするわけよ。

グールド:神社が将軍さまにソンタクするんだ(笑)

世阿弥:そう(笑)。だから、地方をまわってほそぼそとつづけられればいい、というのならともかく、ひろく支持をあつめたいと思ったら、将軍さまの意向っていうのは無視できないわけだ。

グールド:そうすると、「この将軍さまならあわせやすい」とか、ありますよね。

世阿弥:それは、どうしてもあるよね。

グールド:じゃあ世阿弥さんの場合、どの将軍さまがいちばん、しっくり行くかたでしたか? 義満さん?

世阿弥:それはまあ、そういうことになるのかなあ……

グールド:ずいぶんかわいがられたそうですね、義満さんに。

世阿弥:それも、さいしょのうちは、グールド君にこういう話をすると抵抗あるのかな、男どうしだけどこう、ちょっと恋愛的な意味でね、義満さんはわたしをかわいがってくれててね。

 日本にはキリスト教の伝統がないから、わたしらのころのお公家さんや武士は、そういう、男が少年をかわいがる、みたいなことをふつうにやってたんだよね。

グールド:大丈夫です。音楽家の世界って、義満さん的な意味でキリストに背いてるかたがけっこう、多いんで(笑)

僕と共演してくれた指揮者のなかにも、ご自身の嗜好についてカミングアウトしておられるかたがいましたね。

世阿弥:わたしはね、幼いころに母親に死なれちゃってね。

 それで、親父はじぶんとおなじ能役者だろう。だいじに育ててはくれたけど、役者どうしって、親子でも、じぶんこそいちばんでありたいって思いがどうしてもおたがいあるからね。わたしの親父は、「どうしてこんなにチャーミングなんだ? 」って、みてる連中みんなが驚くような、やることがいちいち魅力的なひとでね。だから、親だと思って頼るより、「役者としての親父の、魅力の核心をさぐる」みたいな感じでながめてしまうことが多かった。

 だから、ひよっ子だったころに、わりと無心で甘えさせてくれたひとって、わたしにとっては義満さんなんだよね。

グールド:義満さんは、お能は、どんな感じのやつが好きだったんですか?

世阿弥:いま思うと義満さんは、公正で、キャパのひろいひとだったよね。その一座、その役者のそれぞれのやりかたを尊重したうえで、そのやりかたなりにどこまでできてるかを評価するというね。

グールド:批評家としては理想的じゃないですか。

世阿弥:でも、公正すぎてたまにシャクにさわることもあった(笑) わたしにとって、恋人であり、親がわりでもあったひとだから、本音の部分では、ちょっとはエコひいきしてほしいわけだよ(笑)

グールド:わかります(笑)

世阿弥:たとえばね、わたしの親父が少年の役を、義満さんのまえで演じたことがあってね。それを、義満さんの脇で、そうだなあ、十二、三歳ぐらいだったかなあ、とにかくまだ子どもだったわたしもみてたんだよ……親父はそのころもう、四十歳すぎてたし、もともとからだもデカいほうだったから、ちょっと考えると少年なんて似あいそうにないわけだけどね。子どものわたしの目にも、もう、おないどしぐらいのヤツが立ってるようにしか映らないんだよ、舞台のうえの親父が。

 そしたらね、演技がぜんぶおわって、親父が舞台から消えたところで、義満さん、わたしにいったね。「ねえ坊や、きみが小股すくいを喰らわせても、今日の親父さんには勝てないね」って。

グールド:どういう意味ですか、それ。

世阿弥:これが、深いんだよ。

 わたしは、親父とちがってわりと小がらでね、そのぶん、からだがキビキビとうごくタイプだったの。

グールド:なんとなく、イメージわきますね。

世阿弥:とくに、脚をつかった軽わざ・・・めいたムーブで沸かせるのが得意でね、義満さんもほめてくれていた。

グールド:お父さんの観阿弥さんとは、ちがう個性の役者さんだったんですね。

世阿弥:さっきの少年もそうなんだけど、親父は若い女の役をやっても、ほんとにはかなげで、しおらしい雰囲気をだせるわけ。

グールド:図体デカいのに?

世阿弥:そう(笑) しかも、すでにおっさんなんだよ、当人(笑)

 親父のそういう、なんていうのかな、からだごとべつの存在になりきる力と、わたしの足の芸は、レベルが段ちがいなんだって、義満さんはいいたかったんだな。

グールド:それ、どっちがすごいって話なんですか?

世阿弥:わたしの足の芸を義満さん、「小股すくい」っていったわけよ。

いまでも相撲の決まり手に「小股すくい」ってあるけど、ようは小柄な力士が、相手の不意を突いて喰らわす技だよね。寄り切りとか、上手投げみたいな、オーソドックスな攻めかたからははずれる・・・・わけだよ。

グールド:そういえば、小股すくいの得意な大関、横綱っていませんものね。

世阿弥:つよい力士はそれに、小股すくいでそんなに負けないしね。

 ようは、「たいしてつよくないやつが、じぶんとかわらない程度の相手に仕かける技」ってことになるのかな、小股すくいは。わたしの足芸はそのレベルなんだと。親父の横綱相撲には太刀打ちできないんだと。義満さんは、それをわたしにつたえたかったんだな。

グールド:きびしいですね……

世阿弥:義満さん、「慢心するな」・「芸の道の頂きはとおい」って、ずっとわたしにいわなきゃって思ってて、機会をうかがってたんだろうね。

 でも、それこそ十二、三歳だった当時のわたしにしてみれば、唯一、心を許してた義満さんにこういう言いかたをされて、正直、傷ついたよね。

 そりゃあ、親父の芸がすごいことは、子どものころからじゅうぶん、わかってたよ。でも義満さんにはね、「観阿弥の演技は深いけど、わたしはおまえの舞台をみるほうが好きだ」って、それぐらいのことをいってもらえると思ってたわけよ。そんなあまいもんじゃなかったって話だよね。

グールド:ただ、いまのお話しを聞いてて、お父さんと相撲をとって、懸命に小股すくいで勝とうとする子どものころの世阿弥さんの映像が頭にうかんでしまって……これが、かわいいんですよ、おっきなお父さんに何度も小股すくいを仕かけようとする、子どもの世阿弥さんが。

 ですから、世阿弥さんの芸を小股すくいにたとえたところからも、僕は義満さんのあふれる愛情を感じますけどね。やっぱ、かわいがられてたんじゃないですか、世阿弥さんは。

 

世阿弥:それはそうかもしれないけどね。

 義満さんの愛情は、十二、三歳の子どもにとっては、大きすぎるというか、高級すぎるんだよ。もっとわかりやすくかわいがってほしかったよね、当時のわたしとしては(笑)

(下につづく

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。